3-1. イランがサウジの宿敵となった理由
第1章では、サウジの国教であるイスラム教について説明を行い、第2章では、サウジの政治・経済・社会情勢といった内政について説明を行いました。第3章では、サウジと国際社会の関係について目を向け、外交情勢について説明を行います。
(中東情勢入門の難しさ)
中東情勢と聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。イスラム国のテロの様子、シリアの空爆の様子、湾岸戦争でミサイルが飛び交う様子、どれも穏やかではない場面が頭に思い浮かぶと思います。それと同時に、「なぜこれだけ争いが絶えないのか?」と疑問に思われることでしょう。
本章では、中東情勢をサウジアラビアの視点から見て、なるべく噛み砕いてご説明してみたいと思います。いろいろな利害が複雑にからみあう中東情勢を理解する上で、どこか一つの国に視点を置いて見てみると、状況が見やすいと思います。
本章を執筆し始めるまで、かなりの時間を要しました。というのも、中東入門というのは、中東を専門とする学者でさえ、手を焼くトピックだからです。
「どこかに光をあてると、どこかが漏れてしまう」という不安が絶えません。誤りのないように正確を期しておりますが、お気づきの点がございましたら、コメントをいただけますと幸いです。
(サウード家の脅威、イラン)
「外交は内政の延長線上にある」というのは有名な言葉ですが、これはサウジアラビアにもあてはまります。第二章で、サウジ内政の最大の利害関心は、サウード家による絶対王制の存続にあると述べました。
外交においても、サウード家の絶対王制を支持する国家が味方であり、絶対王制を揺るがす国家が敵だと言っても過言ではありません。
サウジアラビアの宿敵はイランです。イランは、サウジアラビアとペルシャ湾を挟んで向かい側に位置しており、サウジと同様にイスラム教を信仰しておりますが、サウジがスンニ派を信仰しているのに対し、イランはシーア派を信仰しております。
(出典:朝日新聞デジタル 2016年1月5日配信)
サウジとイランの対立が決定的となったのは、1979年のイラン革命が発端と言われています。イラン革命前までは、イランはパフレヴィー王朝の下、サウジと同様、君主制が敷かれておりました。
ところが、1979年、国王の独裁の下で市民生活が一向に改善しないことに郷を煮やした民衆が立ち上がり、パフレヴィー王朝が倒れ、イラン=イスラーム共和国が誕生しました。
さらにイランは、自国の革命だけにとどまらず、各国のイスラム教徒に呼びかけ、イランと同様に、君主制を打倒することを呼びかけたのです。この運動が、サウジ東部に住んでいるシーア派の住民に飛び火しました。
サウジのシーア派住民は、産油地域に住んでいるにも関わらず、その恩恵にあずかることができず、スンニ派による支配に不満をかかえていました。その際、ペルシャ湾の向かいで、同胞が声をあげ、君主制を打破したとなれば、触発されるのも不思議ではありません。
こうしたイランの動きに激怒したのが、サウジアラビア王家サウード家です。繰り返しとなりますが、彼らは、サウード家による支配の存続を第一の利害としており、これを覆すような運動は到底容認できません。
万が一、サウジでクーデターが成功してしまえば、王家サウード家は財産没収の上、国外追放されるおそれもあります。
サウジとイランの関係を紐解けば、「もともとそんなに仲が悪かったわけではない」、「一時は関係が改善した時期もある」など、いろいろと複雑な歴史があるのですが、本稿では、「サウジアラビアの外交上の宿敵はイランである」というところだけ抑えていただきたいと思います。
次項では、サウジアラビアと対立するイランはどんな国なのか見てみたいと思います。
・両国間の歴史の詳細については、こちらをご参照ください。サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか(村上、2016)
・表紙画像は、southfront.orgより。
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