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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<125>
「そんなこと」
勤め先のスーパーで今日もまた雑用をさせられている。けれど実は、本来の業務であるレジを打つことよりビニール袋やドライアイスの補充をしたりカートの整理をする方が気が楽だった。人と関わるよりは一人で黙々と作業をする方が余計な疲れを感じないで済むからだ。
野菜のカスだの魚の汁だので汚れたサッカー台を拭いていると
「ねぇ、美穂」と声を掛けられた。振り向くと母の妹、つまり私の叔母のヤッコおばさんがいた。最後に会ったのはいつだったかまるで覚えていない。
「あのさ。おばちゃん、姉ちゃんにお金貸してるんだけど全然返してくれないんだよね。姉ちゃん、婆さんの葬式にも来なかったしおばちゃんはそれでずっと怒ってたんだけどやっと仲直りしたのに!こんなのってないわ!この間、里香の卒業祝いにって2万円もあげたのに!それはないわ!」とおばさんは矢継ぎ早に大声で話してきた。
勘弁してくれ。母の借金など知ったことか。子供の私にはまるで関係のないことだし、ましてや職場まで押し掛けるとは。しかも周りには沢山のお客や従業員がいるのだ。恐る恐る辺りを見回すとこっちをじっと見ている人もいれば見ないようにしている人もいた。
「おばちゃん……こっちで話そう」と場所を変えようとしたら
「姉ちゃんにお金返してって美穂から言っておいて!」とより一層大きな声で言い放ち立ち去った。
ああ、もうここで働きたくない。どんな顔をして仕事を続ければいいのか。気まずくてたまらない。またヤッコおばさんはやってくるに違いない。母がお金を返すわけがないから。私はレジに戻りたくなくてサッカー台をいつもよりずっと念入りに拭いた。
悪いことは続くもので、それから数日後、客とも呼べない客にひどく絡まれた。その客は週に一度くらい現れる60代くらいの小柄の男で、いつも作業員風の服を着ていた。客とは呼べない、という理由はこうだーーいつも菓子パン1つをレジに持ってくるのだが、
「98円頂戴いたします。袋にお入れしますか?」と尋ねると
「そんなことするなら要らない!」と吐き捨ててパンを置いたまま去ってしまうからだ。誰が対応しようと毎回こうなのだ。
そんなこと、ってなんだろう。袋に入れることが気に食わないのか?とレジ係のみんなで話し合ったことがある。しかし、無言で袋を商品と別に渡しても、「シールでよろしいですか」と訊いても、何をどうしてもこれまた
「そんなことするなら要らない!」と答えは同じだった。そのためレジ係はおっさんが自分のレジに来ませんように、願わくばもう店に来るなと祈る外なかった。
ある日、私はあまり出勤しない高校生のバイトの子と隣のレジになった。
背後から
「そんなことをするなら要らない!」といつものセリフ、声が聞こえたので振り向くとおっさんは既に立ち去った後だった。
「何がいけなかったんだろう……」と涙目になっているその子に私は
「気にしなくて大丈夫、いつもあの人ああなの」と小声で言うとどこからかおっさんが戻ってきて、無言で私のレジを思いっきり蹴り始めた。周りにいた人は唖然。さすがに怖かったけれどどうしてよいのやら分からない。止める人も誰一人いない。レジ係は女性ばかりというのもあっただろうが、男性がいたとしても助け船を出してくれたのだろうか。何も買わなくても、暴れても「お客様」ということで制止出来なかったのではないだろうか。
おっさんはレジを蹴るのをやめると、私を睨んで立ち去って行った。やれやれと思いつつ仕事を続けていると例のパワハラ上司、安藤から普段何に使われているか分からないバックヤードの小部屋に呼び出された。
「お前、お客様に失礼なことしたんだってな!お客様はサービスカウンターに怒鳴り込んできて、お前の指を詰めてもらうと言っている!お客様を『気にしなくていい』呼ばわりするなんて!お前は一体お客様を何だと思ってるんだ?」
ちゃんと双方の話を聞けば、どっちがおかしいのか分かるはずだ。現場を見ていた人から状況を訊いてもいい。尤も、こういう人間は人の話を聞いても分からないどころか聞く気もないのだし、聞いたところで私を平素からひどく嫌っているのだからどうしようもない。黙っていると
「いつ辞めるの?」
この時安藤はどんな顔をしてただろう。覚えていない。そもそも見てなかったかも知れない。
私は「あと2、3週間くらい……」と咄嗟に口にしていた。何故そう答えたのかも覚えていない。安藤がこれに対してなんと答えたのかも。
私は部屋を出て、更衣室に向かった。いつの間にか涙があふれていたようで、身なりを整えたかったからだ。すると廊下でチェッカーマスターと呼ばれるすべてのレジ係の長に出くわした。化粧が落ちた私のひどい顔を見て仰天したのか、事情を知っているのか知らないのか分からないがチェッカーマスターは
「今日はもう、帰って休みなさいな」と私の肩をよしよしと叩きながら言った。
私はもうここには来ないだろう。更衣室のロッカーを開け、鏡を見ながら簡単に化粧直しをし、着替えた。制服や少々の私物はロッカーに置いたまま。もうきっと来ない。けれど荷物をすべて片付けるほどの気力は残っていなかったし、捨てるなら勝手に処分してくれと思ったのだ。
ああ、今日もまた夜の街に行かなくては。出勤までまだ時間がある。どこで時間を潰そうか。またいつもの本屋でも行くか……。
もう、全てを捨ててどこかに行ってしまいたいなぁと思いながら退勤し店を出ると名物客のおじさんがいたので思わず話し掛けた。
「おじさん、私、今日で辞めるんだぁ」
「どうして?お給料安いから?」
お世話になった優しいパートのおばさまたち、私のアパートにも遊びに来てくれた仲良しのバイトの子たちにお別れの言葉を言わずに辞めるのは辛かったーーああ、これ、いつかと同じだ……。ああ、そうだ……大学に退学届けを出しに行った時……母に奨学金を使い込まれたから辞めるだなんて友達にはとても言えなかったっけ。
ああ、もうどうにでもなれ。
冬の冷たい空気が頬を刺す。けれど身体は妙に汗ばんでいる。一人暮らしをしてからもう8か月が過ぎていた。