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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<4>

白い部屋

「お前は知恵遅れだって幼稚園の頃言われたから、お母さんどう育てようかって心配で心配でしょうがなかったの」

私が実際そうなのかは知らないし、母が何を根拠にそう言っていていたかも分からないが、私が大人になってもことあるごとにこの言葉を投げかけられた。

確かに幼稚園の頃からお絵かきは下手、お遊戯もダメ、お歌もひどいものであったが、記憶力と言葉に関してだけは他の子より優れていたと思う。幼稚園で毎週月曜日にある集まりで園長先生が
「来月の3日は、祝日といってみんなのお父さんも幼稚園もお休みの日です。何の日か分かる子はいますか」と言うと私は率先して挙手し
「文化の日です。偉い先生やご本を書いた人が勲章をもらえる日です」と得意気に答えたりした。

私が幼稚園で一番好きだった遊びは「文字探し」というもので、一人一人に新聞紙が配られて先生の
「今日は『ゆ』を見つけましょう。よーい、始め」の合図で丸を付け、時間内にどれだけ多く見つけられるかを競うものだった。
「24個。今日もまたミホちゃんが優勝」
普段は意地悪な担任の先生に褒めてもらえるのはとても嬉しかった。

クラスで一人だけ、仲のいい友達がいた。はなちゃんという、私とは違っていつも元気いっぱいにブランコなどの遊具で遊ぶ子だった。はなちゃんには沢山の友達がいて、園庭で花いちもんめをするときは必ず一番にもらわれていったーー私はいつも売れ残り。お義理で優しい先生が
「ミホちゃんがほしい~」と言ってくれることはしょっちゅうだった。

幼稚園では毎月お誕生会が開かれ、その月に誕生日の子は先生お手製のくす玉を各自選んだお友達からもらえた。私は当然はなちゃんを指名したのだが、はなちゃんは年少、年長のときも私じゃない子を選んで悲しかったのを覚えている。

たまにはほかの子から家に誘われることもあった。美味しいお菓子、カルピス、流行りのおもちゃはすでに我が家では縁のないものになっていて、非常に羨ましく思ったものだった。なにより、優しいお父さんやお母さんはうちにはもういなかった。園の子たちと上手くやれなかった私だったが、それでも誰かの家に行って遊ぶのはそれなりに楽しかった。しかしいつもすぐに母が迎えに来てはみんなでゲームや折り紙に興じている途中で否応なしに帰されるのが本当に嫌でたまらなかった。次第に
「今日はミホちゃんのおばちゃん遅いね」と来たばかりなのに嫌味まで言われるようになる始末。

ある日、はなちゃんの家で遊んでいると
「ミホちゃん、お家が火事になったそうよ。すぐにお母さんがお迎えにいらっしゃるからね」とおばさんに言われ、私は宝物にしていたご本やシールもなくなっちゃったと、大声で泣いた。それを見た母は
「なにあんたはピーピー泣いてるの!はなちゃんはこんなにいい子にしてるのに!」とはなちゃんとおばさんの前で怒鳴りつけた。

泣きながら母の後を歩いていくと、いつものオンボロアパートが見えた。あれ、お家は燃えてない......。どうして?
ドアを開けるとそれまでに嗅いだことのない臭いがして、狭い部屋は白っぽい粉だらけになっていた。なんでも母が目を離した隙に妹がストーブをいじり、鉛筆を突っ込んだそうだ。仕事場から駆け付けた父がいつものように母を
「バカ野郎!」と怒鳴って殴りつけたーーよかった、ご本も付録のシールも無事だった。

あの白は消火器によるものだったとは知らなかった私はそれからしばらく、火事になるとは部屋が白くなることだと思っていた。