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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<6>
食べ損ねたケーキ
幼稚園の頃と同じようにクラスでは上手くやれなかった私だが、それでも家よりは幾分マシだった。
毎日真っ直ぐ帰りなさい、一人で横断歩道を渡ってはいけません、バカ野郎、死んでやる、お裁縫は危ないからダメ、お姉ちゃんなんだからいい子にしなさい、本なんか読んで偉そうにするな、バカ野郎、死んでやる、お前は知恵遅れ......
狭いオンボロアパートでは逃げ場もない。何をしてもしなくても毎日母に罵倒され、激しい父母の喧嘩を目の当たりにする。これならからかわれてもいじめられても学校の方が少しは良かった。担任の先生はまずまず優しかったし、友達も出来たから。
綾子ちゃんはお金持ちの家の子だった。初めて家に遊びに行ったときはとても驚いた。子供部屋がそれぞれある。お父さん、お母さんの部屋だけじゃなくおばあちゃんの部屋まである。ピアノがある。きれいなお庭がある。子供ながらにこんなお家は一生自分には縁がないとはっきりと感じた。
最新のくるくる回すと高さが調節できる学習机、バービー人形、本棚にずらっと並べられた百科事典、そしてなにより私の目を引いたのは地球儀だった。地形が立体になっていて立派で、広い部屋にまるで天体のように輝いていた。いいなぁ、私もこんなのが欲しいと思いながら眺めていると、私の知らない国がいっぱいあったのがものすごく悔しくて、悔しくて、全部覚えてやろうと穴が開くほどじっと見たけれども触れてはいけないようなものの気がして、地球儀を回す代わりに自分が動いた。ホンジュラス、コスタリカ、西サハラ、オートボルタ、ニジェール、アルバニア.............
必死で頭に詰め込んでいると、おやつを食べにいらっしゃいとお母さんがやってきた。きれいなお部屋のきれいなテーブルにはこれまた見たことのないような、きれいなケーキが置かれていた。これ、食べていいの......?きれいで優しい、いい匂いのするお母さんの作ったお菓子。こんなの食べたら明日死ぬんじゃないかなと思って、手を付けることが出来なかった。
「ごめんなさい。私、お腹いっぱいなんです」
「じゃぁ、お家に持って帰る?」
「大丈夫です。本当にお腹いっぱいなんです」
「うん、それならお家で食べたら?今包むからね」
「いいんです。ごめんなさい、ごめんなさい」
私は悪い子ですか?せっかく作ってくれたケーキを食べずに帰るなんて。綾子ちゃんのお母さんの親切心を踏みにじった、悪い子ですか?
でも私は、もっと悪い子になった方がいいのかも知れない。タッ君みたいによそのお家の葉っぱをむしってみようか、それとも地球儀を盗んでやろうかーー出来ない、出来ない。そんなことしたって、汚い家がきれいになるわけでもない。お父さんとお母さんが喧嘩をしなくなるわけじゃない。
私は綾子ちゃんのお家を出てすぐに駆け出した、オンボロアパートの方ではなく川の方に。ホンジュラス、コスタリカ、西サハラ、ええっと、ええっと............ああ、忘れてしまった。ええっと......
私は泣いた。泣きすぎて覚えたはずの国の名前は、家に着く前に全部全部忘れてしまった。
どうやって家に着いたのか、全く覚えがない。けれどお父さんとお母さんと妹がいるから、ここはきっと家だ、私の、家族四人の狭くて汚いアパート。あの時ばかりはいつも穴が開く程飽きることなく毎日読んでいた、永田のおじさんがくれたおさがりの図鑑を見る気にはなれなかった。ああ、あのケーキ、食べたかった。明日死んだとしても構わないじゃないか。
私は、葉っぱをむしる代わりに、こっそり唇の皮をむしった。赤い血が、流れてきた。