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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<11>

昼間のパパは

私のおそらく一番古い、鮮明な記憶である赤いトマトが描かれている大きなあの缶は、私が小学生になっても父の働く工場の同じ場所に置かれていた。工場の社長さんはよくマイクロバスを借りて従業員とその家族を海や山の行楽地に連れて行ってくれた。ああ、あの缶まだあるんだなぁ、と集合場所である工場兼社長の自宅で全員が集まるまでじっと眺めていたのを覚えている。何故か父のお供はいつも私だけ。妹は母と家に残っていた。

私は父に対して複雑な感情を抱いているが、父の職業を蔑んだことだけはただの一度もない。男も女も、老いも若きも汗にまみれ、汚れて臭いが付く仕事。木造モルタルの1Kボロアパート住まいだった我が家に、持ち家一軒家でも当時はなかった家もあった冷房を父が月賦で買ったのは(若い方には信じられないかも知れないが、安価なものでも当時の価格で16万円もしたのだ。なお、暖房機能はついていない)、夏でも冬でも蒸気で暑くてたまらない工場で働いていたからかも知れない。

学校の社会科見学で町の工場に行った。地域では大きな規模の、父と同じ業種の工場。いわゆる3K仕事(きつい、汚い、危険)から危険だけを除いた父の仕事。今はもう機械化されて町で見かけることはごく稀だが、昭和の末期、まだ町にはその種の工場が町に沢山あり、中には「〇〇輸出工場」と堂々と書かれた看板のある工場も近くにあった。輸出専門、というところを強調していたところに時代を感じさせる。ああいった業種は横のつながりが強かったので、別の工場の人が父を知っているなんてこともザラだった。

放課後、見学ごっこと称して班のみんなでそのうちのいくつかの工場を訪れたことがある。工場の人は突然の小さな見学者たちを温かく迎えてくれて、お菓子やジュースを出してくれた。私が
「実は私のお父さん、西川で働いているんです。南って言うんです」と告げると
「あら、西川の南さん?小柄で眼鏡の。まあ、南さんとこのお嬢さんだったの~」と更に歓迎してくれた。父は家ではどうかしている人だったが、仕事は真面目にしていて、それなりに人望があるようだった。

級友は見学が終わった後「南に感謝、南に感謝!」と喜んでくれた。川べりで工場の人が持たせてくれたジュースをみんなで飲んでいると
「じゃぁ、次は南のおじさんの工場に行こうぜ」と男子の一人が口にし、みんなも行こう行こうと言うのであの父を見られるのは嫌だったのだが、ここはみんなの期待を裏切るわけにはいかないと思い、父がおかしなふるまいをしないようにと祈りながら父のいる工場へと向かった。

茶色に塗られた木の引き戸を開けた。幼い頃に何度も母に連れられて来た工場に級友と来るとは思ってもいなかった。ごめんくださーい。ああ、今日も同じ場所でトマトの缶が私を迎えてくれる。私より長生きしているトマト。私よりきっと色んなものや人を見てきた、真っ赤な大きなトマト。

「美穂ちゃんじゃないの。あ、お友達と一緒?今お父さん呼んでくるからここでちょっと待っててね」染料まみれの作業着を着た社長の奥さんが出てきた。お父さん、みんなに変なこと言わないかなぁ。
「おお、美穂か。なんだお前、急に。学校の友達か?なにもこんなところに来ることねぇのによぉ。公園かどっかで遊んでくればいいのに」と父は言っていたが心なしか笑顔だった。

蒸し暑い工場内に案内されたみんなは父に色々と質問をし、父は嬉しそうに答えていた。私は父の仕事を恥じたことはなかったが、みんなのお父さんのようにきれいではない父を見てみんながどう思うか不安だったのだが、みんなが楽しそうにしているのを見てとても安心した。この子たちは私の友達だ。

あの頃はいじめにずっと遭っていた小学生時代、唯一学校で楽しく過ごせた時期だった。