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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<7>

レモンケーキ

母は料理をほとんどしない人だった。食卓に上るのは出来合いの総菜や即席ラーメンやお菓子ばかり。たまに何かの気まぐれで作ることもあったが必ず皿はひどく汚れていて、灰汁も抜かれていない、皮が付いたままの野菜が入ったカレーライスのようなものにはゴミや髪の毛が雑じっていたが私はそれを毎回、黙って食べた。

この頃からだったろうか、私が母の家出ごっこ、心中ごっこに付き合わせれたのは。父と喧嘩になると母は包丁を持ち出して
「じゃぁ死ねばいいんでしょ!」と叫び、暴れた。それを取り上げようとした父が流血したこともある。幼いながらに母は本気じゃないと気付いてはいたが、刃物を持って暴れる人間など理屈抜きで恐ろしいのだ。たとえそれが毎回毎回茶番でも。こうして我が家では包丁という道具は調理にではなく、母が父や私を脅すことに使われたことの方が圧倒的に多かったのだった。

ひとしきり叫び暴れた後、母は
「この子を連れて出て行きます」と嫌がる私の腕を掴んで荷物一つ持たずに外に引っ張り出した。いつも母の道連れになるのは私だけだった。

家を出てまず、近所のパン屋でレモンケーキを私に買い与える。レモンケーキなんてまずいから大嫌いな菓子の一つだったのに、何故か毎回レモンケーキ。そしてこれまたどうしてか分からないが今も残っている防空壕の跡地に私を連れて行き、レモンケーキを食えと命令したーーそれはそれは恐ろしい場所だった。灰色と茶色のよどんだ空気、暗く湿っぽくて埃まみれ、土嚢のようなものがたくさん積み上げられ、さび付いた車なども棄てられていてこの上なく不気味な空間。地縛霊が出たり死体が置いてあっても不思議ではなかったが、母の方がずっと恐ろしかった。私は仕方なくレモンケーキを口に押し込み、ゆっくりゆっくり食べた。食べ終わるや否や母の
「じゃぁ、死のうか」という言葉が聞こえてくるのが分かっているので最期に菓子を味わうような死刑囚のような気持ちになりながらまずいレモンケーキを何十分も掛けて食べた。けれど執行が延びるだけでただただ空しい抵抗であった。

「じゃぁ死のうか」
そら来た。
いい子の私は毎日、今日こそは殺されるかも知れないと思いながら通学路を葉っぱもむしらずに歩いていたが、死ぬことより母の存在が、母の言葉が恐ろしかった。仕方がないので
「嫌だ、嫌だ」と大げさに泣き叫ぶ真似をした。母はその度に
「騒ぐんじゃないよ、みっともない!まるでお母さんがお前をいじめてるように聞こえるじゃねぇか!こんなところ誰かに見られたらお母さん生きていけないわ」と怒鳴りつけ、次はあの、永田のおじさんの家に私を連れて行くのだった。

おじさんとおばさんは毎回、母のお涙頂戴のウソの身の上話や愚痴に付き合っていた。私は隣の部屋でテレビを見たりおじさんの本を読んでいたが、母の声があまりにも大きいので嫌でも聞こえてきてしまうのだ。しばらくするとおばさんが呼びに来る。するとうちでも毎月の父の給料日に頼む中華料理屋のラーメンが4つテーブルの上に置かれている。それをみんなで食べ終わると、おばさんが父に電話をし、父が妹の手を引いて迎えに来る。

毎回毎回、すべてが同じ。そう仕組まれているのだ。
けれど帰りたくない、おじさんの家にずっといたいと、おじさんおばさんの子になりたいと今度こそ本気で泣きわめきたかった。けれどその後の母の折檻がひどくなるのが分かっていたので我慢して、また唇の皮をむしった。やはり、私には赤い血が流れているのだ。