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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<8>

タロとジロ

テレビの向こうで今日も、図鑑で見知った国のどこかで戦争をしているーーけれど私の家も毎日そんな感じだ。そんなことを言ったら、怒られるかな。でも武器は持ってないけどお父さんはお母さんを殴る。お母さんは私に怒鳴って暴れて死のうと持ち掛ける。狭い部屋で行われる小戦争。私はいつも人質だ。

戦火から逃れられるのは、永田のおじさんの家と伯父さんの家だけ。それはお父さんとお母さんが喧嘩しない場所。学校みたいに私をいじめる子がいないところ。

初めて映画館というものに行った。永田のおじさんに連れられて観たのは『南極物語』。小学校一年生の子供が観るには少々難しい内容だったと思う。けれど私は初めての経験にワクワクし、夢中になって観た。上映中、時々おじさんの方をチラチラと見たーー私の隣にいるこの人が、私のお父さんだったらいいのに。

映画が終わって、外に出るとおじさんは
「生き残った犬の名前、覚えてるかい?」と訊いた。
「タロと、ジロ」と答えるとにっこり笑って黙って頭を撫でてくれ、手を引かれ着いたのはデパートの最上階にあるパーラー。きれいなお店でおじさんは家に遊びに行ったときと同じように外国の話を沢山してくれた。
「美穂ちゃんは大きくなったら何になりたいの?」
「ご本を書く人」
「いつもお勉強してるもんなぁ、偉い、偉い」 
オムライスに挿してあったイギリス国旗はこっそりとポケットに入れた。

エレベーターにお姉さんのいる大きな本屋でおじさんは難しいご本を色々と眺めたあと私に
「どれでも好きなの選びな」と言った。私は迷わず地図帳を手に取った。おじさんは
「いつかきっと、アメリカにもスペインにも行くんだよ。もっともっとお勉強したらきっと行かれるよ」とまた私の頭を優しく撫でて、これは里香ちゃんにと妹へのご本もレジに持って行った。

帰りたくない。タロとジロにもう一度会いたい。大きな本屋さんに一日中いたい。またお子様ランチが食べたい。おじさんに買ってもらった地図帳を大事に大事に抱え、おじさんと地下鉄に乗った。おじさん、私はきっとお船に乗って、飛行機に乗ってソ連にもアメリカにも行くよ。だからお勉強をちゃんとするよ。算数は大嫌いだけど。いじめられても頑張るよ。また一緒にお出かけしてくれる?今度はどの国の旗が付いてくるかな。知らない国の旗だったら地図帳で調べてみよう。そして、おじさんにお話を沢山聞くんだ。

急坂の途中にある、私のお家が見えてくると私は繋いでいたおじさんの手をぎゅっと握った。おじさんはしっかりと握り返してきた。私、絶対頑張るからね。見ててね。お話をまた聞かせてね。
父が家の前で待っていた。
「いつもすみませんね。この子、ご迷惑かけませんでしたか?」
お父さんはおじさんの前ではおとなしい。だけどおじさんは頭がいいから、お父さんとお母さんが仲が悪いことも私をいじめることもきっと気づいてる。私、おじさんの子供になりたいよ。でもそれは算数のテストで100点満点取るより、世界中を旅行するよりずっとずっと難しいって知ってるよ。

いつもの6畳間に入って、父と母の顔色を窺いつつすぐに包みを開けて地図帳をめくったーー南極は遠い。タロとジロはこんな遠い遠い寒いところで生き残ったんだ。家も学校もつらい。お母さんがいつも言うように、私も死んじゃいたいって思うことがある。でも、優しい優しいおじさんとおばさんや工場の社長さんを思うと生きなきゃいけないなって思う。どうせなら、みんな私のこと悪い子だと思ってくれればいいのに。そうしたら死ねるのに。ああ、でも東ドイツやカナダに行く前に死にたくない。ねぇ、どうしたらいい?アン?

さっきから右の腿が痛い痛いと思って、トイレでズボンを下ろしたらイギリス国旗が私の肌に地図を描いていた。唇の皮をむしったときと同じ色で。