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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<130>
グリニッジ時間では退屈と
朝早くアパートを出発し、ロサンゼルス旅行の時に買った安物のスーツケースを転がしながら駅に向かった。いずれもっとカッコいいやつを買うんだと思いながら歩いていると車輪が溝にはまって転びそうになった。
いわゆる南回り、アジアを経由する便はもっと安かったけれど時間がもったいないのでヴァージンアトランティック航空の直行便を選んだが、これは到着前から目的地の雰囲気を少しでも味わいたいという狙いもあった。エコノミークラスでも4つのメニューから食事が選べ、アメニティも洒落ていた。
隣の席は団体ツアー旅行の参加者と思しきおばさま。
「あなた、一人なの?え、そうなの?寂しくないの?私は絶対無理だわぁ~」などと話し掛けてくる。ああ、面倒くさい。これから到着まで約12時間、もう話し掛けないでくれと思った。
私はやはり、機内で寝ることは出来ないようだ。暇つぶしに映画を観たがちっとも面白くない。ガイドブックを捲ってみれば隣のおばさんとその隣のの人とのお喋りが聞こえてきて集中できない。日記でも書くかーー無事に離陸。ロンドンへ向けて12時間の旅だ。隣の席のおばさんがうるさい。機内食は松花堂弁当は人気とみえて既に品切れで、ビーフかチキンか魚かだったのでチキンにした。アメリカに行った時のよりはるかにマシな味がした……。ああ、つまらないことしか書けない。
眠れないまま毛布にくるまってボーっとしていると軽食が運ばれてきた。到着間近なのだろう。今はどこを飛んでいる?スクリーンを眺めながら、私はいつかここに映っている国の全部に絶対行ってやるぞと思った。
ヒースロー空港に到着。眠っていないのに加え気圧のためか頭が重たく怠い。
「何日間の滞在ですか?」と入国審査で訊かれ、スタンプを押されて預けたスーツケースを受け取ると日本から事前予約していた乗合の送迎車を探した。本当はタクシーに乗って優雅に移動したかったが身分不相応でかえってカッコ悪いと思ったのだ。格安航空券を使い、やや不便な場所にあるビジネスホテルのような宿に宿泊するような旅人がタクシーに乗るだなんてと妙な意地を張った。
送迎車に乗り込むと団体の5、6人の日本人がいて、楽しそうにお喋りをしている。尻が痛くなるような席に12時間、着いたばかりなのにみんな元気だなぁと思った。
初めてのヨーロッパ、初めての一人旅。中学の頃から大好きなパンクロックバンドが生まれた街。高校の頃に憧れた先生もこの通りを歩いたのだろうか。ああ、夢にまで見たロンドンに今私はいる。けれど疲れ果てていてそんな感慨はなかった。団体のみんなは中心部にある4つ星くらいだと思われる立派なホテルの前で降り、私一人が残された。いいなぁ、私もいつかお金なんて気にせずに好きなホテルに泊まりたい。ああ、さっきからこればかりだ。カッコいいスーツケースが欲しい、スクリーンに映った国に全部行きたい、タクシーに乗りたい、好きなホテルに宿泊したい……私は贅沢なのだろうか?1年前には旅行なんて夢のまた夢だったのに。疲労のせいかなんのためかは分からなかったがロクなことが浮かんでこない。やっぱり東欧に行けばよかったとさえ思えてきた。私はいつの日か、人を妬んだり境遇を嘆いたりすることをやめることが出来るであろうかーー車窓から見るロンドンはどんよりとしている……子供の頃図鑑で見たのと同じように。
車が止まった。これから7泊するのは部屋数だけは多い簡素なホテルだった。フロント係は愛想がなく、パスポートを見せ書類を書き終えると無言でキーを渡された。疲れた身体に鞭打ってスーツケースとボストンバッグを自分で運んで着いた部屋はシングルベッドが3つもあったけれど、何の飾り気もなかった。ああ、疲れた。まだ夕刻前だったが、荷解きをする前にベッドの1つに横たわったら泥のように眠ってしまった。目覚めたらすっかり辺りは暗くなっている。今、何時だろう。時計を見たら朝だった。そんなに私は眠りこけていたのか。ああ、これは日本時間か。私は時計を9時間戻した。そしてまた泥のように眠ってしまった。