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「5cmの向う岸」を知っていますか
ユーミンの「5cmの向う岸」って歌。ご存知ですか。是非聴いてみてださい。今日はそれからです。
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実に、ルッキズムとは残酷なものである。
逃れられない。いくらいい気分でいたとしても、どうしてもつきまとう自己肯定感の著しい低下を及ぼす根本原因。
かくいう俺も身長は164cmほどで、日本の男性の二十代の平均身長である171cmには程遠く、六十代の平均身長であるところの167cmよりも低い。さらに足も短いときて、いよいよもって純日本人体型だなァと、ここまでくれば胸を張って開き直れるところでもあるといえる。
こんなことを書くと、こういったくだらない悩みから解放されている方々はやれ「気にしなくて良い」だの、やれ「それなりの良いところがある」だの、「やい、チビ」だの吐かしやがるから、全くもって良い人ばかりの世の中にうまれて、俺は幸せものだ。
じゃんけんで負けて蛍に生まれたのなんていうのは金子みすずも残しておりますが、いやこれは池田澄子でした。失礼しました。
話を曲のほうに戻します。どこから話そうか、題材か、あるいは彼女の性格や生い立ちか。色々なところで現代に蔓延るポリティカル・コレクトネス、もといサスティナブル・ディベロップメント・ゴールズに断固として反対する姿勢…昭和の消費主義的思考が新鮮なまま、そこに真空パックされている。まさしく、ときにはジャンクの極地に触れ、己の高潔さをなんとやらである。それは今日では〇〇と呼称されずしてなんと呼ぶか。
すみません。こんなにも話が脱線して本題に入らないのは、この歌詞の内容としては、友達やなんかに、身長差をイジられたからなんかよそよそしくなり、向こうがそれを察知して泣く泣く別れたと、ただこれだけの話だからです(リアルな目線をドラマに仕立て上げている完成度の高さについては十分に理解し、評価しているつもり、と書かなくてもこの歌は十二分に評価をされていますね)。
態度を悪くしたのは自分なのに彼氏の方に「やっぱり合わないよ」と、言わせてしまう二番の歌詞はあまりにも可哀想。そして、なんて優しい男なのでしょう。彼女は彼の、どんなところが好きだったのだろうか?何も書いていない。何も。身長なんて気にならないくらい、とびきりのいいところがあったんじゃなかったのか?
昔(といっても2年ほど前)、知り合いに背の高い女性がいて、厚底の靴を履けない、彼氏より背が高くなってしまうからといっていたのを思い出した。それを聞いたときは微笑ましく思ったものだが、身長というものはなかなかどうして、アベックにとっては深刻な悩みのうちのひとつなのかもしれない。どうでもいいが彼女は今アフィリエイトで稼いでいるらしい。
安易にYOSUKEなどの御足によって彼氏より背が高くなってしまおうものなら、プライドを著しく汚されたと思い憤慨して、ジャンピング・アッパーカットを食らわせるような人なのかもしれない。あるいは恐れおののいて縮こまってしまい、ナメクジのように小さくなってしまうような人なのかもしれない。そんな男なら別れてしまえ。あ、別れたみたいです。
となると、女は背が低くあるべきか?という話も同時に存在することになる。もちろんそれは、男の低身長がなんの問題もないことやアフィリエイトで稼いでいる人がいるのと同様に、全く問題はないはずだ。厚底の靴を履いたっていいし、ぶら下がり健康器で更に身長を伸ばしてもいいし、骨延長さえしなければなにをしてもよろしいとさえ思う。
しかし気にする人がいるのはなぜか。なぜ彼氏より背が高くなりたくないのか?可愛らしくいたいからか?男をたたせたいからか?答えは今の俺にはわかりません。
いっぱんに、べつに背の高い女性も良しとされている。だが逆はなかなか許されず、いまだに背の低い男性は暗い部屋の隅で残飯を貪る生活を強いられている。といったら言い過ぎだが。なぜ男性の身長はこんなにも気になるのだろう?
俺は、どうも陰茎の大きさが関係しているとにらんでいる。
ともかく、この歌は曲調から歌詞から、節々に「可哀想さ」が溢れ出ているためにこの曲は人々の心を揺り動かし、そして俺はもう更新されることのない柱の傷を自分の心の傷のように撫で回し、時にはたぬかなに人権を剥奪されそうになったりしながらも、この曲のことがいつまでも忘れられないのである。
「おでこの上で鼻を啜った」
おでこの上に鼻がくるなら15cmくらい背が違わない?