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アイリッシュマン

 2020 1/16に、ブログに書いた記事を移動しただけです。
アップリンク渋谷さんでアイリッシュマンを観てきました。

アカデミーにもノミネートされてるけど何がそんなに評価されてるのかっていう人もいるだろうし、過大評価!みたいな意見も見かけたので勝手に面白さを語りたいと思う。

派手なシーンは本当に全然ない。

メインテーマとなるのは死生観。

めっちゃ泣いた。横のおじいちゃん寝てたけど。

帰り道でもずっと泣いてた。

映画の感想は作家の意見あんまり関係ないと思うけど、スコセッシ本人の過去の発言とか作品の解説と照らし合わせて考えてゆくよ。

(この作品はメインテーマとかがミーンストリートに似てるから対比していくね)(だからミーンストリートもみてね)

グッドフェローズ観てなきゃ、みたいな事言ってる映画アカウント(?)もいっぱい居たけど別に観てなくても良いと思う。

ミーンストリートは初期の作品で、テーマも似てるから観てた方がスコセッシの映画の見方が少し変わるんじゃないかなあ、と思う。個人的にね。

じゃあメインテーマだっていった死生観について述べていくよ。

この作品では独特のテンション(緊張感)で人が死んでいく。

陽気さとある種の静けさが共存するR&Bやジャズに合わせて物語は走馬灯のように進む。

この時間の流れ方はお葬式の会場での時間の流れ方に似てる気がする。

人々が行き来する中、目にも鮮やかな花束のクロースアップの背後で聞こえる銃声。

日常会話をしながら、バースデーケーキや、キリストの像を前に、一瞬で殺される人達。

殺された人達はこういう闇の組織に関わってるんだから死の存在を間近には感じていただろうけど、まさか今だとは思わなかっただろう。

暗殺が終わるとフランク(デニーロ)は使用した武器を必ず海に投げ捨てる。

この海に銃を投げ捨てるシーンがわざわざ何回も描かれているのには意味があって、パターン化することによってテンポを整えるのと、殺されていく人達が日常の中で突然死を迎える事を強調する意味がある。

でももっと重大なのはホッファ(アル・パチーノ)が殺されるシーン。

この映画はここからがさらに面白い。

出会ってから少ししてフランクとホッファがホテルの同室に寝るシーンでは、フランクがサイドテーブルに銃を置いてる上に、ちょっと銃に触れてみたりもするし消灯後ももぞもぞ動いてたりしてホッファ撃たれるんじゃないか?って少し心配になる。

でも映画が進むに連れて二人の絆は固いものになっていって、そういう緊張感は消える。

だから車のシーンで、ホッファがフランクを見て安心して車に乗るシーンも、撃たれる直前の、部屋に誰も居なくて怪しいから「早く出よう!」ってフランクの腕をとるシーンも本当に切ない。

他の人物と同様、日常の中でホッファは殺される。この映画では、友人を殺すシーンでさえ、躊躇して涙ながらに引き金を引くとかそういうドラマチックな感じでは描かれない。

私は暗殺にフランクが関わる事を決めた時は、もし殺されるなら銃声だけ聞こえるとかかなって思ったんだけど、スコセッシはそんなことはしなかった。

他の殺された人達同様、血が飛び散って倒れる。しかも死体を焼くシーンまで映る。

スコセッシの暴力描写は本当に洗練されてる。

面白がったり、残酷さに酔ったりするんじゃなくて、一つ一つに映画の価値観や主人公独自の倫理を保つための意味がある。

なぜ死体を焼くシーンまで映るのかっていうと観客にへんな希望を持たせない為。

ただホッファの死が他の人と違うのはフランクがホッファを撃ち殺した銃を海に捨てなかったって所。

これはフランクはベストを尽くしたんだなって思わせてくれる重要なシーン。(これがまた歳を取ってから揺らぐんだけど)

スコセッシの映画のメインテーマは「一見モラルがあるように見えても、不条理で矛盾だらけの世の中で、いかにして己の正義や価値観を確立していくのか?」っていうのと「己の正義感と現実で守るべきもの(こっちも自分の正義感でもある)が対立した場合は必ずどちらかを裏切ることになる為、自分にとって善悪とは何か?」というもの。

彼自身の言葉だと「(聖書の解釈について)この世界にモラルがあるとは限らない。既存の価値観を超越し、独自の法律を持ち社会に向き合う方法を教える。社会というより部族単位の世界」(ミーンストリート解説)って言ってる。

これは国や州が定めた法とマフィアの世界の法の間に板挟みにされたスコセッシだからこその、根本的なものを問い直す命題だね。

マフィアの世界では「でも法律違反だし〜」とか言ってられない。

でも彼らの言いなりになってどんな悪事でも働くのか?って言ったら違うよね。

そんな人生には意味がないもん。

マフィアの世界の法は不文律だから、自分が人間として意思を持って生きていく上で、自分の中に法を作る必要があるんだね。

自分の法で生きてるってなんか勘違いされがちだけど誰にでも必要なことだし、
これはマフィアだとよりわかりやすいってだけで本当に誰にでも通じることだよね。

いじめとかに例えてみるともっとわかりやすいかも。

でも実は、この作品のテーマはこれです!っていうのは本当はすごく難しい作品なんだよね。

全てを包括できるような壮大なテーマだから。

スコセッシはミーンストリートの解説で、自身の出身地について「私の故郷は人を裁かずあるがままを受け入れた。だから私も人の善意を裁くつもりは無い。可能な限り最善の方法で人に接するだけだ」と言っている。

この人の善意を裁くつもりは無いってのはかなり重要な言葉だね。

スコセッシは社会不適合者を描くから厭世家でメインカルチャーに中指たててる、みたいに思われがちなところもあるけど、スコセッシは世の中も人間も社会もクソだ!みたいなシニシズムには全然染まってない。

友人の暗殺は、家族を守るためにも、自分が生きていくためにも仕方がなかった。

家族を守るためにホッファを殺した時のフランクは、銃を捨てないという行為で最善を尽くした。

と思いたいんだけど

この「やるしかなかった」という安堵感は簡単に打ち砕かれる。

しかもそれが「実はこんな事実がありました!」みたいなドラマチックな出来事によってではなくて、歯が抜けて滑舌の悪いラッセル(ジョー・ペシ)がご飯をもぐもぐしながらいう
「ちょっとやりすぎちゃったかなって思ってるんだよね〜」っていう一言。

「は?」って感じでマジで腹たつんだけど、フランクは微妙な表情。(本当に台本に妥協がない)

だから「"あの瞬間の"最善を尽くしたんだ」って言う解釈のほうがしっくりくるかな。あのときのフランクには家族という守るべきものがあって、天秤にかけた結果の選択だからね。

不条理の極みだけど人生ってそんなもんだよね。

私はカミュとかカフカとかが好きなんだけど、このシーンは太陽が眩しかったから人を殺しましたっていう『異邦人』よりも、地味で表面上納得できる理由があるぶん、もっと凶悪な印象を残す。

殺さない方が良かったとも、殺したのは仕方がなかったとも言えない。

グレーゾーン。

答えが見つからない。

フランクの微妙な表情が全てを物語ってる。

スコセッシがこの様な考え方をするようになったのにはきっかけがある。

その日遊んでた他の地区の友達がその日の帰りに突然殺されたという事件があり、スコセッシは人生について深く考えるようになった。(この事件がきっかけでスコセッシはミーンストリートを作った)

ミーンストリートではホッファみたいな問題児をデニーロが演じてたけれど、モデルになった叔父の問題行動についてスコセッシは「死なせたく無いなら手を打たねば」って言ってる。

両方の作品でこういう「権力に迎合出来ない人間」「周囲に合わせられない人間」を守ることの難しさが描かれているけど、フランクとか周囲はホッファにかなり強烈目な脅しをかけたりとかして、割と出来ることはやったんじゃ無いかな…?とも言えるし、不十分であったとも言える。

もうこれは本当に人生そのもの。

どこまでも倫理観を保つことの難しさが描かれている。

後スコセッシは宗教観も面白い。

キリスト像の前で人が殺されるシーンからも、
フランクが神父に懺悔を求められて「そんな電話は出来ない」(神が対象ではない)っていうシーンからも、スコセッシの独特な宗教観がうかがえる。

一見すればアンチクライストか?ってなりそうなこのシーンだけど、スコセッシはキリスト教なんだよね。

それも映画監督じゃなければ聖職者になりたいと思ってたほど。(大分異端な聖職者になっただろうね)

スコセッシは幼少期から喘息に苦しんだ。 

「私は都会の生活に上手く溶け込めなかった。溶け込んだとしても私は傍観者で、行き延びることに必死だったんだ」
と語るスコセッシは一番落ち着く場所が教会の墓地だったらしい。

だからスコセッシにとって宗教は生き伸びるために必要なものだった。

そんな背景からか、彼の宗教観はびっくりするほどタフ。

ミーンストリートの解説でスコセッシは「教会で罪は償えない。許しを求めても無駄。どんなにいい人でも、日曜の朝毎回教会に行っても無駄。他人への行いでしか人は許されない」という。

神父とのシーンでのやり取りが腑に落ちるよね。

あとミーンストリートでも贖罪がテーマなんだけどチャーリーの罪悪感は漠然としたもので、何に対する贖罪かは明らかにされない。

フランクは自分の贖罪の為に(ここでも贖罪というのはぼんやりしていて、一種の比喩表現のようなものになっている)娘達との関係の修復を図るけど、時すでに遅しで孤独を深めていく。

このフランクの罪悪感というのはホッファを殺した為だけのものでは無い。

娘たち本人に向けってっていうのもあるし、とにかく誰かに許してもらいたいっていう漠然としたもの。

自分が決めた正義に完全に従って生きるのは現実世界では無理だから、人間は生きてるだけで大なり小なり罪を犯す(=生きていることの罪)だからスコセッシの描く主人公は贖罪を求めるんだろう。(夏目漱石の『こころ』みたいだね)

牢屋の中も印象的。

皆でボール遊びをしたり、喋りながらご飯を食べたり、保育園か老人ホームみたいだ。

タルコフスキーの『鏡』に 「人間に肉体は一つしかない。独房だ」 って言うセリフが出てくるんだけど、なんとなくそれを思い出した。
(このセリフはプラトンからきてたんだっけ…??忘れちゃった)

棺桶を選ぶシーンの
「これは棺桶界のキャデラックですよ!」
って言うブラックなジョークも、バランスを崩して床に倒れるフランクの姿も、妙な静けさがあって、全編を通してまるでお坊さんの話を聞いてるみたいだ。

この映画は繰り返しが多いこととか、最後にフランクが棺や教会の地下を見に行ったりするもあって、人生の閉鎖感というものを痛いほど重い知らせてくれる。

しかも年老いたフランクは、杖や車椅子無しでは移動することもできない。

だから去ろうとする神父にフランクがドアをちょっと開けておくように頼むラストシーンが本当に泣ける。

ミーンストリートで元気に飛び回るデニーロを見てるから尚更。

でもスコセッシはそんなことを嘆き続けるほどヤワじゃない。

人間の醜さとか人生の不条理さに、
「まったくもう嫌んなっちゃうよな」
って苦笑しながら、なんだかんだで全てを受け入れて、最大限に楽しもうとしてる。

そういうことも全て含めて、スコセッシという人は結局人間が大好きなんだろう。

ミーンストリートの解説でスコセッシが監督業や人生の大変さをアボットandコステロのギャグに喩えて笑っていたことを思い出して、そのタフさに思わずこっちまで笑ってしまう。

スコセッシの笑いはブラックだけど冷笑的じゃなくて、それが誠実さと強さに繋がってる。

メインとなるテーマは共通するのに、ミーンストリートは手法も編集も音楽からも爆発するような若さが感じられて、新しい時代に変えて行こうっていうパワーと、不条理な人生を生き延びていこうという覚悟を感じる。

一方アイリッシュマンは哀愁と、新しくなっていく時代を遠くから眺める老人の孤独、不条理な人生を思い返して思わず笑ってしまうような、死を間近にした人間の静かな覚悟を感じる。

タクシードライバーのデニーロとスコセッシは、
私にとって、デニスホッパーとか、ジェイムズディーンとか、マーロンブランドと並んで若さや青春のアイコンでもあるので、

フランク役のデニーロの「人生はあっという間だ」というセリフも、遮った看護師のああまたおじいちゃんなんかいってるよ的な感じもかなり心にグサリと刺さった。

あと老人ホームでデニーロが語り出すシーンから、もう本当に泣ける。

デニーロは笑顔が素敵だし、ミーンストリートでは氷で目を冷やすシーンの爆発するような悪戯っぽい笑顔が随分印象に残るけど、本作での彼は笑顔にさえ影があって寂しい気持ちになる。

ここまで誠実に人生を描いた作品は珍しい。

あとハーヴェイ・カイテルも出てきてなんかねえもうなんか泣ける。

かなり余韻が残る作品で本当に思い出しては泣いてる。

アカデミー賞なんてどうでもいいけど私の中ではこれが最高賞。

スコセッシはお気に入りの作品をみるに芸術!!哲学!!みたいな高尚な文化が大好きなんだけど、本人が作る作品は泥臭さというか、それまでの作品には無かった高級なイデオロギーとリアリティと汚さとカッコ良さとアメリカ的な低俗さが混在してて本当に最高。

唯一無二だなぁって思う

スコセッシは人生の閉鎖感とか老いへの恐怖を隠そうとはしない。瞬間瞬間で痛みを感じつつもそれも含めてあるがままに受け入れ、強さに変えて行くからこそ、適当な励ましからは得られない勇気を貰える。

マフィアっていう派手な設定に気を取られがちだけどミーンストリートのメインテーマがジョニーボーイの幼児性ですらないと語るスコセッシが打ち出すテーマは、もっと普遍的で人生を俯瞰したようなもので本当にすごい。

過大評価なんてコメントもあったけど私からすれば十分に評価されてないくらい。

あとこの記事で引用しまくったスコセッシによる一時間越えのミーンストリート解説は面白いので是非きいてみてね。















































































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