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日本研究 信仰編 ⑵鬼とは何か
①霊的存在としての鬼
鬼畜、鬼嫁、鬼上司、鬼教師、一時期は電通鬼の十則などというのも話題になりました。最近では鬼凄(すご)、鬼速(はや)なんていう言い方もよく聞きます。明らかなマイナスのイメージから恐れと尊敬の混じったものまで、鬼の表現は曖昧で多種多様です。
それは今に始まったことではなく、昔からずっとそうでした。
鬼はキリスト教の悪魔の様な、神と対立する絶対的悪ではありません。
恐怖の対象であると共に敬われる存在でもあります。
その意味でも鬼は神と同じ性質を持った神々の一員です。
事実、鬼とは語源的には隠れて目に見えない神霊である「隠」と、中国で死霊を意味する「鬼(き)」が結びついた概念と言われます。
まさに鬼とは神霊なわけです。
ですが時代が下ると共に神が持つ荒々しさ、恐ろしさを鬼が多く受け持つ様になり、やがて人間から見れば非人間的、反社会的と見られる性格が強調される様になった様です。
確かに鬼を生き物として連想した場合、人を拐って殺して食べるなどの行為が思い浮かびます。
まさに鬼畜の所業であり、殺人鬼、食人鬼の鬼です。鬼の容貌は角の生えた頭で口には牙、大きい体に虎の皮の腰布をつけ、手には金棒を持ち、皮膚は赤か青、または黒。これが最も典型的かと思います。これ以外だと縮れた髪や鋭い爪なども挙げられるかもしれません。
ですがこの一般的なイメージも定着したのは江戸時代に入ってからで、中世の鬼の容貌はひどく多様でした。中世に書かれた宇治拾遺物語や今昔物語集の中には、馬や牛、鳥の首を持つ鬼、一本足や口のない鬼など実に多様な鬼が存在します。
宇治物語「百鬼夜行にあふ事」の記述に「あるいは角おいたり」、つまり無数の鬼の中には角のあるものもあったとあるので、ここから鬼の容貌の最大の特徴とされる角さえも、必須条件でなかったことが分かります。
天狗、河童、妖怪なども今では鬼と分けられますが、元は鬼の一種と言われています。昔は豊潤で多様だった鬼の有り様も、時代が下ると共に分離され固定化が進んだということでしょう。ですが一貫して変わらない有り様もあります。それは圧倒的な能力を持っていることです。
人智を超えた圧倒的な異形の力。
昔から武道の世界では鬼や天狗から伝承を受けた話が数多存在します。
武士の間でも傑出した人物には鬼の名を冠するのが一般的でした。
鬼武蔵、鬼玄蕃、鬼半蔵、鬼義重、鬼小島等、全国各地に鬼の異名を持つ武士は数多く存在しました。この異名は味方や敵にとって恐れと尊敬を込めたものあり、こう呼ばれることは当の本人にとって紛れもなく誉れでした。
現代でもスポーツの世界では土俵の鬼、リングの鬼、フィールドの鬼など傑出した個人には鬼の名が冠せられます。
これらは傑出した個人に、まるで鬼の様な力を持っているという畏敬から冠せられた異名です。
まず何よりも異形の力を持っている。これが鬼の一貫とした特徴なわけです。
日本史上最も有名な鬼である酒呑童子は気象を操り台風や旱魃を起こしたといいます。
凄まじい変化の力も持っています。
昼は人間の子供の姿ですが、夜になると身の丈5丈、5色まだらの体で目は15、角が5本という正体を現します。
首を切られた際も、その首はなお飛び回り討伐隊を苦しめたといいます。これもまた人知を超えた異形の力です。討たれた理由は京の人々をさらって食べるという、非人間的.反社会的行為のためでした。
酒呑童子の様な有名な鬼でなくとも、鬼とは必ず異形の力を持った存在です。
鬼がその力で人間を苦しめるか益するかは人間との関わりによっても大きく変化します。
事実鬼が人を助けた話も数多く存在します。
安倍晴明の下で働く鬼(式神)や、役小角の弟子になったという前鬼と後鬼、あるいは村人の為に堤を作り水を引いたという岩木山の鬼などはその好例でしょう。
人々が傲慢無礼な行いをすれば鬼は人を苦しめ、謙虚で真摯な行いをすれば人を助けもします。それは神と人間の関わりと基本的に同じであり、その点でもやはり鬼が神と同じルーツを持つことが分かります。鬼神の如しとか、鬼神の働きなどの表現は現代に至るまでごく一般的です。
鬼と神を同列に置いてその力を畏怖する。
鬼と神はやはり同族と言える存在なのです。
②鬼と呼ばれた人々
今まで鬼の概略を色々と述べて来ました。
それは日本人にとって普遍的な、人ならざる霊的存在としての鬼です。
ところが鬼にはもう一つの種類が存在します。
それは鬼の烙印を押された人々、何らかの理由で鬼と呼ばれるようになってしまった人々です。
傑出した個人に冠せられた異名としての鬼と違い、この場合の鬼は一方的な恐怖や蔑視から生まれたものと言えます。非人間的.反社会的な存在と捉えられ、多数派から人ならざるものとされた人々。
例えば朝廷に従わぬ各地の人々、又は盗賊や山賊などの無法者。彼らは体制に組み込まれない、あるいは従わない人々であって、体制側から見れば反体制的な異形の存在です。
もう一つは反体制ではありませんが、山の民や川の民、又は流浪の人々なども挙げられます。彼らは平地で定住暮らしをする人々とは異なる職能.慣習.習俗を持っていることも多く、多数派の平地人から見れば、ある種異形の存在でした。
無論、異形=鬼という訳ではありません。
ごく普通に、又は活発に交流が行われることなど無数にあったでしょうし、深い信頼関係を築いた場合も数多あったでしょう。ですが交流の程度は地域によってばらつきがあったでしょうし、
又は新しい集団が流れてくることもあったでしょう。
さらには何らかの理由で友好関係に亀裂が入る場合もあるでしょう。
その時人は異形と感じる人々に鬼の烙印を押し始めます。
人は異形と判断した存在に潜在的な恐怖を抱くと言われます。
そして恐怖は人の異質感を事実を超えて増大させます。
彼らは人を平気で殺して喰らい、親子兄妹で交る、そんな噂話がまことしやかに語られてゆきやがて鬼の烙印は異形と判断された人々の体に一層強く押されてゆく。
これは程度の差はあれ、異なる文化が接触した時にいつの時代も起こる心理的プロセスかもしれません。
いや異なる文化に限らず、同じ社会の中でも類似することは起こり得ます。自分が異質と判断した存在を、恐れ蔑視しレッテルを貼って迫害する。
根っこの部分は現在においてもあまり変わりがないのかもしれません。
現代では古来の鬼が持つ豊潤さは大きく失われました。
鬼のイメージはかなり画一的となり、同族である神々からは一層切り離され、非人間性. 反社会性がより際立つ存在となりました。
ですが鬼の非人間性. 反社会性も見方を変えれば、道徳や倫理を超えた生命力の現れです。
その強烈な生命力はいつの時代も人の憧れであり続けるのかもしれません。
そして神としての、神霊としての鬼も決して滅びた訳ではありません。
有名な秋田のナマハゲを始め、神が異形の鬼の姿をとって訪れる行事は未だ各地に残ります。
現代でも全国には鬼が祭神名に含まれる神社が15社、社名に鬼の字を含む神社は61社残ると言います。
鬼の子孫を名乗り、それを誇りとする人々も各地に存在します。
もし鬼が現代においては完全に神性を失い、ただ忌避されるだけの存在に堕したならおそらくそれを誇りとして名乗る事はないでしょう。
人の意識の奥底に、鬼の神性は未だ脈々と生き続けているのだと思います。