第一歌集 吟行の日々
では、吟行の旅に、ご一緒に出掛けましょう。
まずは、日本三名園の一つ、岡山の後楽園を訪れています。
本園は貞享三年(一六八六)、備前藩主・池田綱政が家臣・津田永忠に命じて十四年の歳月を費やし、元禄十三年(一七〇〇)に完成しました。
完成後は池田家で使用していましたが、明治十七年(一八八四)に岡山県の所有となり、一般に公開されました。
園の名称は、亭を主とすれば茶屋屋敷、園を主とすれば後園と呼ばれましたが、明治四年(一八七一)、名実ともにふさわしい後楽園と改められました。
本園は江戸時代を代表する回遊式庭園で面積約十三ヘクタールに及び、主建物の延養亭を中心に烏城、操山を借景として取り入れ、園の諸所に祠堂園舎を配し、それらがおのおの景趣をもち、歩きながら移り変わる景色を楽しむようになっています。
旭川の中州に造られた庭園ですが、清らかな水を引き入れて曲水・池・滝などに上手に水を利用したことは造園上注目に値するものです。
本園の特徴は日本特有の茶趣味の手法が多く取り入れられると共に広大な芝生と、沢の池の広々とした水面の景趣が、瀬戸内の温暖な気候風土に似て明朗快活なことや、築山・池・芝生・曲水・園路・植込みなどが優雅に配置され、いかにものびのびとして上品に造られています。
本園を構成する庭石・樹木はほとんど郷土のもので風土に調和した景観構成をしています。
本園は地方まれに見る名園であり、海外に誇り得る大名庭園として、昭和二十七年(一九五二)文化財保護法による特別名勝に指定され、日本三名園の一つとされています、とのことです。
入園して、まず鶴の檻へ寄ってみました。
羽ばたきて狭き檻中とびたげに
飛び跳ねており丹頂鶴は
しばらく行くと視界が開け、岡山城が望めます。
城望み池にさざ波立つ園の
芝生を巡る木々刈り込まる
園内のさざ波光る池の面を
白鳥一羽静かに泳ぐ
そして園内の奥まった所に茶畑がありました。
黄緑の若葉の続く茶畑の
後ろに竹の林を控え
そして、また入り口の方へ戻ってきます。
茅ぶきの屋根整いし延養亭
園内一の客殿なると
(田舎式寝殿造り)
薄青き日暮れ間近の空の雲
うすオレンジと灰色に染む
引き込まれ園を巡れる水流に
小型の水車さわさわ回る
そうして後楽園を後にしました。
我が家の近くには造船所があります。
タンカーのオレンジ色の船体の
朝焼け空に紛れて眩し
その造船所のそばには、お寺があります。
寺の鐘鳴る音のむた朝焼けに
烏あまたも飛び交いにけり
進水を待つタンカーの先端に
人影小さし前を見詰めて
タンカーを繋ぐワイヤー外されて
ゆるりと台を滑り行くなり
(進水式)
薬玉の割れてタンカーゴオーッという
地鳴りと共に滑り行くなり
進水式にまつわる情景でした。
岡山の小高い山懐にある仏心寺。
あまり記憶が定かではないのですが、そのそばにあったのが、京風料理”瑞心”であった様に思うのですが・・・。
まず、お昼を頂きました。
玄関の框《かまち》の床《ゆか》を張り切って
拭き掃除する女性ありけり
(京風料理”瑞心”)
頭と尾折り合わせたる鮎らしき
空揚げ飾り獅子唐添わる
後は散策です。
年月を経し山門の屋根瓦
隙間の空きて土見えている
(仏心寺)
蓮池の端に三脚そなえいる
人は写真に何撮るらんか
茅ぶきの軒の瓦の屋根古く
障子の白さのみ目立ちたり
葉の繁る寺の古木の幹太く
苔むしていて枝の捩じれる
子供らの海老掬いいる蓮池に
御玉杓子の数多《あまた》も泳ぐ
座敷より庭木の間に見晴るかす
町霞たり白々として
趣のある仏心寺でした。
倉敷の美観地区の外れ辺りの東町にある、東町という名の老舗旅館。
旧倉敷街道に沿った、くらしきの宿・東町は、明治初期に創業した呉服問屋・十六屋が、その最盛期に建てた前店と別荘だったものです。
たっぷりとした敷地の正面の広壮な店舗を中へ入ると、中庭、数寄屋造りの別荘、さらに、その奥へ手の込んだ庭園が広がっています。
当時、暮れには、町の中心だった界隈一帯で、誓文払いが行われ、街道に沿って露店が立ち並び、ガス灯のあかあかとした光の中、近在近郷から詰めかけた買い物客で、立錐の余地もないほど賑わった、といわれています。
別荘では、商家の旦那衆、俗にいう”白足袋族”が、芸者衆を揚げ、庭園を愛でつつ、春秋に盛大な宴会を催した、とも語り伝えられています。
くらしきの宿・東町は、こうした往時のこの地方切っての豪商の造りや、庭園をそっくり残しながら、新しい感覚も盛り込んで、キメ細かく改装され、他に類を見ないほど、ゆったりとした、しかも目立たない贅沢さに満ちた〝宿”と”食事処”として、古い街並みにしっとりとけ込んで、今に甦っています。
”本モノの倉敷”が、ここに確かに息づいているのです、とのことです。
お座敷に人の楽しきお喋りを
聞きつつ宿の料理いただく
お座敷にちびりちびりと燗酒を
頂きながら料理味わう
湯葉巻きの煮物を食めばゆくりなく
柚子の香りの口に広ごる
黄の針の如き衣を纏う海老
料理の技の見せ所かも
つぎつぎと料理は続き茶碗蒸し
食べれば旨き穴子にあたる
倉敷の老舗の宿の床の間に
置かれし琵琶にいにしえ偲ぶ
どのような拙歌も深く味わわれ
師は丁寧に添削なさる
詠む人と心一つに味わわれ
講師は生かすその感動を
歌会も終わり近づく部屋の外
いつしか秋のやわら陽あたる
ふるき良き造りの宿の中庭に
秋のやわら陽あまねく及ぶ
味わい深い宿でした。
今日は、地元の王子ヶ岳にやって参りました。
山の上の奇岩巨石が、今にも落ちてきそうです。
まずは麓から。
奇岩巨石突き出す峯の上空を
鳶ここばくおのがじし舞う
そして頂上へ。
見下ろしに初夏の陽受けて飛んでゆく
色鮮やかなパラグライダーは
うっ蒼と繁る雑木々見下ろしに
なだれて続く初夏の陽浴びて
見下ろしの山林の上を風にのり
一羽の鳶悠然と舞う
見下ろしの林を分ける一筋の
道を車の光りつつ来る
見下ろしのなだりの先の砂浜の
岩場に一人釣りをしている
見下ろせる山の緑は海辺まで
続くなぞえに朝陽を受ける
見下ろしの瀬戸の海面の広々と
よぎる漁船の航跡長し
山の上に拓かれし庭草草の
さ揺れて初夏の日溜まりとなる
見下ろしの山のなだりを青青と
初夏の雑木々海へと続く
山腹に一羽の鳶舞い降りて
木々の間《あわい》ゆうららかに鳴く
雄大な眺めでした。
岡山の宿。
玄関の備前焼なる花入れに
水仙凛と活けられており
つくばいにさも無造作に置かるがに
青きアイリス凛と活けらる
(雅亭)
岡山県高梁市成羽町に、浄福寺を訪ねました。
成羽町に近づくと霧が濃くなり、緑豊かな切り立った山が霧に包まれています。
川辺より緑豊かに稜稜と
切り立つ山の霧に覆わる
そうして、山の麓の浄福寺の対岸でバスを降りたのです。
その川には吊り橋が掛かっていて、川面いちめんが深い霧に覆われています。
吊り橋に小雨そぼ降り濛々と
川も一面霧の漂う
吊り橋を渡ると・・・。
浅霧の山に籠りて諸鳥の
おのがじしなる声の飛び交う
薄霧のこもれる山の静けさに
声すがすがと諸鳥の鳴く
そうして浄福寺へ・・・。
それは、相当の古刹でした。
古いお寺の厳かさ。
そこで食事をいただき、添削会もいたしました。
帰る頃には、小雨が降っていて・・・。
腕木など細部にわたり風化して
雨に染みゆく浄福寺の門
素晴らしく、味わい深いお寺でした。
岡山の県立博物館へ行ってみました。
儘ならぬ動乱の世の安寧を
念づ写経の文字の見事さ
(尊氏願経)
帷子《かたびら》の褪せしも貴き空色は
着用されし往時偲ばす
(江戸時代のもの)
角立ちて紋様ふかきそのフォルム
力感あふる縄文の土器
(深鉢)
素朴さに古墳時代の生活《なりわい》を
語る埴輪の柔和な面輪
それから後楽園へ
木洩れ陽の落ちて青寂ぶ苔の面に
紅の椿の花そのままに
曲水の底の豊かな水苔を
ひた透き徹す水の真澄みて
またの来園を楽しみに、後楽園を後にしました。
書写山円教寺です。
当山は約一千年前(康保三年)(九六六)性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれました。
上人は第三十代敏達天皇の子孫、橘諸兄(葛城王)の五代目にあたり、母は源氏の出姓です。
この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清められるという文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得られました。
その後、徳を慕い御利益を得ようと多くの人々がこの山に登るようになりました。
花山法皇は二度も御来山になり上人の教えを受けられ、大講堂を建立し、書写山円教寺と名付けられました。
後白河法皇も七日間御参篭になり、後醍醐天皇は隠岐の島より御還幸の際一泊されました。
西の比叡山と言われるように、鎮護国家の道場で、その中心になるのが大講堂です。
摩尼殿(本尊如意輪観世音菩薩)は西国第二十七番の霊場として、今も全国から参詣者多く、その信仰の中心です。
境内は史蹟に指定され、重要文化財も二十数件、数百年の樹林に囲まれ深厳そのものです、とのことです。
まず、われわれ一行は姫路を目差します。
麓へ着いてバスを降り、ロープウェイで登ります。
山の上には古い山門があり、そばには檜の大木が天に向かって真直ぐに立っていました。
風化の度すすむ山門しかすがに
真直ぐ育つ檜の古木
山上の木々の苔むす道行かば
雲雀らしきが囀りやまず
まず食事を取り、添削会へと進みます。
後は、散策です。
柱など歴史偲ばす寿量院
屋根青々と緑青の吹く
奥へ奥へと進んでゆくと、とても太い杉の古木が立っています。
細い渓流には小さな石の橋が掛かっていて、その周りを広く、緑の瑞々しい楓が取り囲んでいるのです。
上流に掛かる小さな石橋を
青青染めて楓取り巻く
書写山の主にあろうか堂々と
三抱えもある杉の大木
そこから見える摩尼殿は、京都の清水寺の舞台を、そのまま、ひと回り小さくした様な見事な造りです。
清水の舞台に次ぐとのその舞台
楓《かえるで》越しに摩尼殿の立つ
なんといっても、その古さが、歴史を偲ばせます。
摩尼殿の風化のすすむ腕木など
頭上に重し匠の技は
摩尼殿の裏手の崖の迫りたる
長き軒下ただ仄暗し
摩尼殿の前に広がる原生林
日の陰るあり日の当たるあり
そうして帰路に付きました。
書写山をこだまするほど清らなる
鶯の声大きく響く
書写山の上より視界開けたり
遠くに霞む山山々は
またロープウェイで、書写山を後にしました。
日常の歌を少し
今もなお争い絶えぬ地もあるに
この穏やかな年の瀬を謝す
年の瀬の行き交う人の穏しさに
田舎町たるしあわせを謝す
変わりなく昔しのばす細道に
白き椿の花びら散りぬ
感動の言《こと》をようやく授かりて
ただただ神に礼《いや》申し上ぐ
真心を尽くすことのみ願いしと
やはり然《しか》りかジャネット・リンは
(札幌オリンピック回想)
穏やかなただ穏やかな年の瀬に
神の恵みを心より謝す
若くして三味と踊りに生きぬくと
芸者舞千代その心意気
幼らを琴を通して導ける
御師匠様《おっしょうさん》の歌声やさし
俄かにも暖かなれば樟に
小鳥あまたも囀りにけり
ようように暖かくなり白梅も
その花びらをのびのび開く
このところ暖かなれば梅が枝に
蕾ここだのふくらみを見す
頸椎の痛みようやく和らぐか
母に久しき笑いのもどる
ぼけの枝に今かも咲かんここばくの
蕾おおきくふくらみにけり
うちなびく春をむかえて早々と
薔薇の細枝に若葉の芽吹く
うぐいすの遠く鳴きつつ木蓮の
白き花咲く頃となりけり
毎年の文化の日には、岡山城に現存する、西手櫓《にしてやぐら》と月見櫓《つきみやぐら》が一般に公開されます。
月見櫓は天守の一郭にありますが、西手櫓は天守閣から少し離れた、今は学校になっている、その校庭の片隅にありました。
武家ゆえの鉄砲狭間《てっぽうざま》と石落とし
西手櫓は備えて悲し
中へ入ると、そのまま往時を偲ばせてくれます。
急な階段を上ると廊下と座敷がありました。
城内の廊下にしあれば見学者
ふと侍に見えぬでもなし
ふと太し往時の材の象徴か
この床板《ゆかいた》の大きなる節
時経たる塗《ぬ》り出格子《でごうし》の窓越しに
いと鮮らかな紅椿見ゆ
腰高の明かり障子の窓ひろく
光政公の隠居所となる
去り難き西手櫓か現存の
この柱にも往時しのばれ
階《きだはし》のこの欄《おばしま》の艶やかさ
いかなる人ら触れにしものか
校内の西手櫓よ願わくば
学童たちの良き刺激たれ
この、現在の内山下小学校付近が、当時の岡山城西の丸でした。
それから天守へ向かいます。
尊くも櫓の中を味わいつ
空襲前の天守を惜しむ
いよいよ月見櫓です。
実戦に備えし上の優雅さか
月見櫓は往時しのばす
やはり急な階段ですが、二階は、なかなか素敵です。
頬を吹くこの春風のここち良さ
月見櫓の窓に尊む
心地よく姫君もかく見渡すか
月見櫓はいや眺めよし
今日は一日、お城の人になりました。
今日は対岸の高松へフェリーで渡ります。
よく訪れるのは玉藻公園での植木市です。
ひたぶるな夢を託せし植木市
目当ての梅を隈なく捜す
帰りのフェリーでは、船上へと上ってみました。
たそがれの船の上なる大空にi
飛行機雲の輝けるのみ
残念ながら宇高国道フェリーは、もう無くなってしまいました。
今はフェリーも、一社を残すのみの様です。
良寛さんでお馴染みの、岡山県倉敷市玉島柏島の円通寺を訪ねました。
見下ろせる漁港の音の遠くする
この静けさを鶯ら鳴く
見下ろしの小枝に止まる鶯の
羽ばたきしつつ清らかに鳴く
鶯の時おり枝を移りつつ
ほろほろほろほろ鳴き続くなり
並び立つ木の下陰を青々と
土の苔むす神々しくも
この山のいかなる小屋か古ぶまま
道の片えに朽ち果てにつつ
桜木の古びし幹を青々と
苔むすままに神宿るかも
良寛さんさくらんぼうがうれましたと
岩にほのぼの彫られし一句
真向いて仰ぎ奉ればことのほか
地蔵菩薩の面りりしかり
和風らしお寺の庭に友松亭
色も形も唐風なるや
すべるほど急勾配の茅葺きの
屋根の見事なその葺きかげん
(円通寺本堂)
良寛さんに親しみながら、景勝地を後にしました。
愛らしさ
気に入りのドレスを抱きて幼子は
目を近づけて値札に見入る
ワンピースの値札見つめし幼子は
胸のポケットゆ五百円出す
幼子はドレスの値札と五百円
交互に見つめ苦笑いする
ご自分で持たれますかとレジの声
幼はドレス買ってもらうらし
ワンピースの包みを下げて幼子は
母と一緒に帰り行くなり
ほほえましい光景でした。
小豆島への船旅です。
ご婦人に島の名前を問わるまま
甲板の上にしばしを和む
島の辺の潮の流れの早さかも
そこだけに立つさざれ波はも
瀬戸内の島の岸辺に沿いながら
船は今しも潮の目をゆく
潮風のすでに寒くも霜月の
日差しは未だデッキに温し
目的の島にはあらずしかすがに
フェリーはやおら回り込みゆく
(寄港)
接岸のアナウンスゆえゆくりなく
小豆島かと錯覚をする
(豊島《てしま》)
仮の場とあれどいつもと変わりなし
チャペルにおける添削会は
(ホテルのチャペル)
続き窓パノラマとなし開けたる
瀬戸の海原島々の影
見るからに吸い込まれたる心地する
壮大な谷切り立ちし崖
(寒霞渓)
海からの風吹くゆえか壮大な
屏風のごとく崖の切り立つ
満ち足りて帰るフェリーの窓越しに
見ゆる真っ赤な瀬戸の落日
有意義な吟行会でした。
山陰へ旅しました。
岡山は寒くなけれど防寒の
身じたく済ませいざ山陰へ
山陰へ近付くにつれ行く手より
鈍色《にびいろ》の雲現れてくる
防寒の支度したれば県北に
心置きなく冷気味わう
(蒜山《ひるぜん》高原)
あこがれの原乳なれば立て続け
一合瓶を二本味わう
行くバスの窓より見ゆるあの山は
もしや名高き蒜山三座《ひるぜんさんざ》か
(三山の連なり)
鳥取の燕趙園《えんちょうえん》の舞台にて
初めて生で京劇を見る
京劇の女剣士の足運び
まさに似ている太極拳に
夜気に触れじっくり浸《つ》かる露天風呂
肌《はだえ》に触《ふ》るる岩の又よし
かわたれをふとも飛び立つ水鳥の
なぜか湖面をすれすれに行く
あけやらぬ湖に立つさざれ波
一つ方へと伝わりつづく
あかときの湖にふとエンジンの
音を立てつつ舟出でてゆく
湖の一つ所へ向かう舟
エンジン吹かし一つまた一つ
湖の一つ所へ群れている
舟はどうやら漁《いさ》りするらし
小舟にて棒の長きをあやつるは
どうやら湖《うみ》にしじみ採るらし
日の差せば晴れそうなれど山陰か
こはゆくりかに霰《あられ》ふりくる
白々と壮大な波幾重にも
白兎《はくと》の浜へ打ち寄せている
(因幡の白兎伝説)
名にし負う鳥取砂丘山のごと
近寄りがたく遠く眺むる
初めての山陰の旅は、有意義でした。
旧足守藩侍屋敷(岡山県指定重要文化財)
この遺構は、江戸時代中期の建築と推定される(旧足守木下藩二万五千石の家老職として永く続いた名家の邸宅で)武家屋敷の形態をほぼ完全に近い状態で残しており、県下唯一の貴重なものとの事です。
長屋門を入ると、正面に長大な母屋が東北に面して建ち、裏手に離れて内蔵と湯殿があり、内蔵へは廊下で連絡し、母屋の近くには土蔵が一棟建っています。
母屋は桁行《けたゆき》十二間、梁《はり》五間(一部三間)、寄棟造《よせむねづく》り、茅葺《かやぶ》き、総廂《ひさし》の平屋建てです。
正面に唐破風《からはふ》をそなえた玄関と二間の式台を設け、家老邸としての威厳を保っています。
式台をあがると、上床《あげどこ》つきの八畳、右に折れて十三畳の広間があり、その間の左に大床を設けています。
その上手に八畳の座敷が突き出し、この三間が表向き(公式用)の書院に属します。
上位の八畳には、床と付書院を設け、床脇の外はすぐ縁側で、付書院には花頭窓を開いています。
次の間との境に、珍しい香図組欄間《こうずくみらんま》を入れ、天井はすべて竿縁天井、外側に縁をめぐらし、質素なうちに格式のある礼儀正しい構造になっています。
私生活に使用する奥向きには、六畳の内玄関をつけ、四畳、六畳、三畳、二畳、七・五畳の各室を配しています
そのうち、十三畳の奥にある七・五畳の部屋は、当主の居間にあてられ、二畳(仏間)の間は武士の家にかならず設ける一室といわれています。
長屋門には、右手に茶室、左手に中間(下男)部屋を設けています。
足守藩木下家は、平氏の出身で杉原と称していましたが、家定のとき、妹(ねね)が豊臣秀吉の北政所であったので、木下氏を許され、また豊臣の称号を与えられました。
木下家定は、関ケ原合戦に際しては、北政所を守護して中立を守ったので、慶長六年(一六〇一年)三月二十七日、姫路から備中国足守二万五千石に転封しました。
ここに足守藩木下家が始まり、これから明治維新にいたるまで、十三代にわたり足守藩主として、足守陣屋町の形成に尽力されたとの事です。
まず家老屋敷を塀の外から眺めながら、右手へ回り込んでみました。
築地《ついじ》より苔むすままの老木を
しみじみ晒す家老屋敷は
小藩の家老屋敷のいにしえの
歴史秘めたる長屋門かな
一の間へ藩主を直に迎えたる
家老屋敷の御成門かな
名前からさぞや立派と思いしに
意外と小さき御成門かな
小藩の家老屋敷の象徴か
表玄関質素なりけり
さすがにも家老屋敷の部屋部屋の
かなりの並ぶ内玄関ゆ
かぐわしき煙の匂いただよいぬ
どこかで誰か焚火するらし
古びたる家老屋敷の庭に散る
落ち葉焚くらし柿葉くすぶる
ささやかに煙の立ちて消えかけし
焚火に残る赤き柿の葉
日の差せば白く乾きし土の面に
庭の木立の影現るる
去りがたい家老屋敷を後にして、近水園《おみずえん》へ向かいました。
近水園は旧足守藩主木下家の庭園です。
遠州流の池泉回遊式で、江戸時代前期の作庭と推定されています。
池には鶴島・亀島が配され、足守川の水が引き込まれています。
池に面して吟風閣が建っています。
この建物は六代藩主木下サン定が幕府御用として宝永五年(一七〇八)仙洞御所・中宮御所を普請したとき、その残材を持ち帰り建てた数寄屋造りで、さし天井・船底天井・雨戸の開閉などに特色を持たせています、とのことです。
家老屋敷と近水園との間に、木下利玄の生家があり、表を掘割りが流れています。
歌人・木下利玄は、明治十九年一月一日に
足守に生まれ、五才のとき伯父の旧藩主・木下利恭の相続人となって上京。
学習院を経て東京大学国文科を卒業、短歌は佐々木信綱の教えを受ける。
生家は、寄せ棟造り・桟瓦葺き。
背面中央から別の寄棟を延ばし、全体は丁字型となっている。
玄関式台は二間、掘り割りに面して、土蔵と下男部屋を付設した長屋門があり、さらに薬医門を設けている。
近水園内の鶴島には、有名な牡丹の歌碑がたてられている、とのことです。
さ走れる真澄みし水に細長き
川藻の群れて流れにまかす
鄙里《ひなざと》の利玄生家の庭の柿
葉の無き枝にあまたの熟れ実
朽ちかけし利玄生家の土の壁
どことなくふと人の気配す
近水園に到着です。
お抹茶を頂かれるや友人ら
木の間隠れの緋の毛氈に
恩師らは吟風閣の縁に座し
抹茶飲まるるいにしえ偲び
近水園《おみずえん》の池の狭間を次々と
流るるように鯉泳ぎゆく
細枝をふいに離れしひとひらの
枯れ葉舞いつつ池へ落ちゆく
余情を抱きつつ、歴史豊かな地を離れました。
今日は、備中国分寺を訪ねています。
国分寺の丘にはびこる荒草の
中に芒の穂の出揃える
国分寺の丘の道辺の荒草の
中にほおけし芒穂の群れ
丘陵の苅り田の先に民家より
少し離れし草葺き屋あり
丘陵の傾《なだり》を占めて並びたる
苅り田の先の草葺きの家
丘陵の苅り田のそばに彫り深き
異国の顔の道祖神あり
(備中国分尼寺跡への別れ道)
こんもりと茂りし丘の上に見ゆ
護国の寺の五重の塔は
(備中国分寺)
こんもりと茂りし丘の上《え》に覗く
五重の塔に秋日傾く
丘陵の苅り田の中の一枚に
細き青草出揃いており
なぜか懐かしい、吉備路の里でした。
吟行の旅は、いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけましたでしょうか。
もし、楽しんで頂けたのでしたら幸いです。
ありがとうございました。
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