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異文化を分かり合う世界を作るためにはどうすればよいのか (政治学書籍要約)
政治理論に「多文化主義」という考え方がある。今回はこの思想を用いて、どのようにすれば異文化が分かり合えるのかという思想を紹介していく。
「多文化主義」の始まり
「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」という言葉が世界で初めて公的な文書として載ったのが、1965年のカナダ二言語・二文化王立委員会予備報告書であった。
カナダはイギリス系、フランス系、ネイティブアメリカン、イヌイットなど様々な人たちが生活している多元国家であり、その多様な人々をまとめることが必須であったことが背景である。
カナダ政府はその後、多文化主義の政策を打ち出した。具体的には服装の決まりを免除したり、少数民族を財政的に支援したり、自治を認めたり、少数民族の決まりを認めたりする政策が行われた。
国際的にも少数民族が自分の文化を維持したり、盛り上げたりすることを人権の一種として扱うようになった。
つまり、この時代になってくると、一つの民族(単一民族)が一つの国家(単一国家)をつくるという常識(国民国家モデル)から、二つ以上の民族が一つの国家を運営していくという常識(多民族国家モデル)に変わっていったのだ。
「多文化主義」に対する反発
このような「他の文化も理解していこうや」という雰囲気になりつつある中、「それはおかしいんじゃないか」という人が現れる。政治学者サミュエル・P・ハンチントンである。
ハンチントンはソ連の崩壊、多文化主義人気の高まり、移民の拡大などで、ナショナル・アンデンティティが衰退し、サブナショナル・アイデンティティが力をつけてくると予想。国民統合が必要であり、少数派は多数派に同化すべきだと主張した。
つまり、「私たちは同じ(国民)だ」という意識(ナショナル・アンデンティティ)がこれまであったが、これからは社会変動によって「一部しか同じではないじゃないか」(サブナショナル・アイデンティティ)という意識を持つ人が多くなってくると予想した。そして、これでは国家がバラバラになってしまうと危惧し、国民が一つになること(国民統合)が必要だと主張した。そのためには、少数派が我慢してまでも多数派に合わせる(同化)必要があると説いたのである。
多文化主義は必要なのか
「多文化主義は必要だ」と論理的に唱えるには2つの理由がある。
①道具的価値論
この考えは、多文化主義を個人の自由と個人の自律を成し遂げるために必要な考え方であると主張する。つまり、個人の自由と自律を達成するためのツール(道具)として、多文化主義という考えを利用する価値があると主張している。
自由になる前には平等な環境が必要である。そのためには、格差を出来るだけ無くす必要がある。そうすると、人々には同じ数の選択肢が与えられるようになる。その選択肢はもちろん「多様な文化を選ぶ」ことも入っている。そのような自由を獲得することで、人々が自律していき、幸せな社会になると彼らは考えているのである。
②内在的価値論
この考えは、「文化が好きで守りたいと思っている。なら、異なる文化も守ってあげよう!」と主張する。つまり、「異なる文化も大切だ」と主張したり、行動したりすること自体に価値がある(大切である)と主張している。
一方、その考えに「文化を守るだと?そんなことをすれば、いやいや従う(信仰する)人が出てくるじゃないか。それは個人の自由を脅かしているに等しいぞ!」という批判も出ている。
その文化は守るべき?壊すべき?
守るべき文化と壊すべき文化の間にどのような線がひかれているのだろうか。
キムリッカは守るべき文化を「個人の権利をサポートするもの」、壊すべき文化を「人々を制限し、不幸にするもの」と定めている。
では具体的にはどう分類すればよいのか。
守るべき文化は外的保護の側面を持っている。つまり、集団の外から権力が及んだ時、それから人々を守る役割を持っている。そのため、人々には自由が認められている。
一方、壊すべき文化は内的制約の側面を持っている。つまり、集団の内から不満や反乱が出た時、それを抑える役割を持っている。そのため、人々には自由が許されていない。
だが、このような考えは、一方的な価値観の押し付けだと考えることもできる。この議論の本質は、どこまでが許容できて、どこまでがダメなのかということである。
多文化主義の心構え
皆、「異文化を受け入れることができるように、寛容になるべきだ」と主張する。だが、本当にそれでよいのか。
寛容とは、強い者が弱いものに見せる思いやりであり、優しさである。そのため、上から目線であり、「寛容の心を持ってあげよう」という意味合いが含まれてある。
そのため、寛容ではなく、承認する心構えが必要である。
承認は、自分とは違うものを知ることで、価値観が変わる可能性がある行いである。
その承認をするためには、多数派側が動かなければならない。他者の価値観に触れて、自分の視点を広げる意識が必要である。
そうすることで、「単なる共存」社会から、「真の意味での共生」社会に移行することができるようになる。