なぜ小学生は敬語を使えないのか
「小学生が敬語を使えないのはなぜが」
このような問いに人々はかなりの割合で「親がしっかりとした教育をしていないからだ」という。
しかし、私はそうは思わない。おそらく、親のせいにする人は、子供の頃の記憶を忘れ、大人の視点で無責任に批判しているだろう。
言語というものは「どれだけ覚えれたか」というよりも、「どれだけ実践できたか」ということで身につく。日本型の詰め込み教育では全く英語が話せないことと同じである。
小学生に入り、1日のほとんどを学校で過ごすことになった小学生は必然的に「実践の場」は親の前ではなく、友達の横になる。
そのため、言語を身につける実践の場としては「学校」が大きな役割を果たすことになる。
私の実体験では、小学校高学年において、周りの小学生が上の学年の人にタメ語を使って話していた。私は「え?敬語で話さなくてもいいの?」とは思ったが、周りの人から変な目で見られるのを嫌がり(実際に見られるかどうかは関係なく、恐怖があった)、敬語を話さなかった。
やがて、小学校を卒業して中学校に入ると、突然敬語を使うことが当たり前になる。私の場合は、県有数の強豪である部活に入っていたため、その点は非常に厳しかった。よって、中学校において初めて敬語が身についたのである。
これを理論的に解説すると、経済学ではナッシュ均衡、社会心理学では社会的証明が適用できる。
ナッシュ均衡とは、相手が行動を変えない限り、全員その状況の行動に従わざるを得ない(従わなかった場合のコストが大きい)、変えなくても比較的満足できる組み合わせである。つまり、みんなが一定の秩序の中で自分の利益を最大化できる戦略方法のことである。
小学校ではこのナッシュ均衡が起きている状態だと考えられる。
また、社会的証明とは、自分の判断よりも周囲の判断が正しいと思い込み、その後の行動を決めてしまう心理的傾向のことだ。人は非日常な事件が起きたとしても、「自分が変に動けば、周りから『おかしな人』『冷静じゃない人』と見られてしまうのではないか」という恐怖に駆られ、「自分が助けなくても誰かが助けに入るだろう」と結論づけてしまう。その結果、誰も助けない(動かない)という現状が起こりうる。
小学校では、「非日常」ではないし心理学ではこの現象で重要視されている「知らない関係」でもない。しかし、誰でも「おかしな人」とは思われたくないし、周りが正しいと思っているだろう。よって、この状態でも多少の社会的証明による現象が発生している状態だと考えられる。
よって、小学生が敬語が使えていないことは納得するに値する。
「親の教育」を批判する人は、学校という集団の「空気」という強大ものを完全に無視している。
その「空気」を変えるには「学校規模で大規模な敬語練習会」を開くなどをするしかないだろう。
参考
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