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【3分で読むエンジニア物語】 第2話 コードに込めたメッセージ

中村美咲は、静寂の中でこそ本領を発揮するタイプだった。大手IT企業「BlueShift」でバックエンドエンジニアとして働く彼女は、無口で人見知り。雑談や会議では必要最低限しか話さないが、コードレビューとなると鋭い洞察力を発揮することで知られていた。

今日も彼女は、自宅のデスクに向かい、薄暗い部屋でノートパソコンの画面を見つめていた。窓の外では春の風がカーテンを揺らしているが、美咲の世界はその揺らぎとは無縁だった。彼女の目は、チームメンバーのプルリクエスト(PR)に集中していた。

「ロジックが冗長すぎる。再帰処理に置き換えるべき。」
「変数名が不適切。可読性を損なっている。」
「この実装ではパフォーマンスに悪影響が出る可能性がある。」

次々と冷徹なコメントを書き込んでいく。彼女にとってレビューは、チーム全体の品質を保つための重要な仕事だった。感情を挟む余地はない。ただ、事実を、正しく、的確に指摘する。それが美咲の信念だった。

しかし、数日後、Slackの通知音が静寂を破った。
メッセージは同僚の若手エンジニア、田村からだった。

「中村さん、ちょっとレビューについてお話しできますか?」

淡々とした依頼だが、なぜか胸の奥がざわついた。ビデオ通話を開くと、田村の画面越しの表情は硬かった。

「あの、率直に言うと…レビュー、ちょっと厳しすぎませんか? 読んでると、自分の努力が全部否定された気分になるんです。」

美咲は思わず沈黙した。心の中で「そんなつもりはなかった」と呟くが、口には出せなかった。コードの品質を上げたい一心だった。個人を責める意図なんて、微塵もなかったのに。

その後も、チーム内の雰囲気は微妙に変わった。Slackでのやり取りは素っ気なく、レビュー依頼も美咲を避けるようになった。孤立感が胸に重くのしかかる。

「私はただ、正しいことを言っただけなのに…」

そう自分に言い聞かせても、寂しさは消えなかった。

ある日、偶然目にした古いチャットログに、かつての上司が書いた言葉が残っていた。

「レビューはコードに対するものだけど、その先には人がいる。言葉はコードよりも複雑なバグを生むことがあるんだ。」

その言葉が、美咲の胸に刺さった。
「私は、コードだけを見ていた。でも、本当に見るべきなのは、その向こうにいる人だったんだ。」

次のレビュー依頼が来たとき、美咲は深呼吸をして、心を落ち着かせた。そして、いつもなら冷淡に指摘していたコメントに、少しだけ違う言葉を添えた。

「この部分、ロジックを簡略化するともっと良くなると思います。でも、このアプローチも面白いですね!」
「変数名を変えると可読性が上がるかもしれません。ここまでの実装、お疲れ様です!」

書き終えると、ほんの少し心が軽くなった。まるで自分自身に向けて書いたメッセージのようだった。

翌日、田村から返信があった。

「レビューありがとうございます! 確かにその方が良さそうですね。指摘も分かりやすかったです!」

短いメッセージだったが、美咲の心は温かくなった。コミュニケーションはコードと同じで、たった一行の違いが大きな変化を生む。

その日、美咲はチームミーティングで初めて自分から発言した。

「レビューって、技術的な指摘だけじゃなくて、信頼を築く場でもあるんだと思います。私も、もっと皆さんと話しながら進めていきたいです。」

画面越しのチームメンバーたちが微笑んでうなずいた。美咲は小さな達成感を噛み締めた。完璧じゃなくてもいい、少しずつでいい。コードも言葉も、伝えるためのツールなのだから。

そして今日も彼女は、新しいレビュー画面を開く。そこには、ただのコードではなく、チームとつながるためのメッセージが並んでいる。

美咲は、静かに、でも確かに成長していた。

おわり


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