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【3分で読むエンジニア物語】 第9話 最後のプルリクエスト
山田賢一は59歳のベテランエンジニアだ。長年勤めてきたIT企業のオフィスで、彼は静かに最後の仕事に取り組んでいた。定年退職まで残りわずか、デュアルモニターに映し出されたのは、これまで無数のプロジェクトで繰り返してきた作業—最後のプルリクエストだった。
オフィスの窓からは、成長著しい都市の景色が広がっている。かつては小さなスタートアップだったこの会社も、今では数百人規模の企業へと成長していた。山田はその成長を見届け、支えてきた。しかし、心の奥には一つの問いが残っていた。
「俺は、何を残せただろうか?」
山田は過去のコードを振り返った。そこには完璧なアルゴリズムや洗練されたロジックが並んでいる。しかし、それだけでは何かが足りない気がした。技術は進化し、やがて古くなる。だが、思いは時を超えて受け継がれるはずだ。
ふと、彼の指がキーボードの上で止まった。ただのコードレビューではなく、自分の思いを込めた最後のメッセージとして何かを書き残そうと決意した。
// このコードは完璧じゃないかもしれない。
// でも、コードは常に成長するものだ。
// 失敗を恐れるな。挑戦し続ける限り、君たちは成長する。
普段は無駄なコメントを嫌っていた山田が、意図的に言葉を残す。それは彼なりの「手紙」だった。彼はさらに書き続けた。
// バグが見つかったとき、それは成長のチャンスだ。
// チームメンバーの意見を大切にしろ。最良のコードは、最良の議論から生まれる。
そのコメントには、技術以上の信念が込められていた。山田はふと手を止め、デスクの上に置かれた古びたコーヒーマグを見つめた。若い頃、初めてこの会社に入ったとき、同じように緊張と期待で胸を膨らませていた記憶が蘇る。
「最初の頃は、ただ必死だったな…」
彼は思い出に浸りながら、同僚たちと過ごした日々の数々が心に浮かんできた。深夜まで続いたデバッグ作業、無駄話に花を咲かせたランチタイム、新人への厳しいレビューの後にこっそりフォローしたメール。すべてが彼の人生の一部だった。
オフィスの片隅に置かれたホワイトボードには、かつて議論を交わした痕跡がまだ残っている。書き殴った図解、消し忘れたメモ、それらが不思議と懐かしさを呼び起こす。
後輩たちはプルリクエストを開き、静かに読み進めた。最初は驚き、次第にその意味を理解し、目頭を熱くする者もいた。彼の厳しい指摘の裏に、どれだけの思いやりと成長への願いが込められていたのか、ようやく気づいたのだった。
ある若手エンジニアは静かに呟いた。
「山田さんは、ずっと僕たちのことを考えていたんだな…」
レビューを終えた山田は席を立ち、静かにオフィスを見渡した。騒がしい日常の中で、彼の存在はもう特別なものではなかったかもしれない。しかし、彼の思いはコードに刻まれ、確かに受け継がれていた。
退職の日、若いエンジニアたちが集まり、彼に声をかけた。
「山田さん、あのコメント、ちゃんと受け取りました。」
山田は微笑み、軽く頷いた。それだけで十分だった。彼は最後のプルリクエストを通じて、技術だけでなく、エンジニアとしての誇りと信念を後輩たちに託したのだった。
オフィスのドアが静かに閉まる音とともに、山田の新たな旅立ちが始まった。しかし彼の思いは、あのプルリクエストと共に、ずっとここに残り続ける。
その後、若いエンジニアの一人が山田のコメントを見返しながら、新しいプロジェクトのコードを書き始めた。その指先には、確かに山田の教えが生きていた。コードは静かに流れ続け、未来へと繋がっていく—まるでバトンのように。
新しいプロジェクトが動き始めるたび、誰かが山田の残したコメントに気づき、その言葉に励まされる。彼の影響は、静かに、しかし確実に広がっていた。
おわり