SATTVA考察:裏表ない生活のために今できること
バケーション中に考えたこと総括
3週間弱をアメリカですごし、いつもと違う環境に身を置いて、本を読んだり文章を書いたり、普段食べないものをいっぱい食べたり、自然の中で遊んだり、色んな人と英語で話したり、楽しく過ごさせてもらいました。
普段の自分を離れることで、自分の立ち位置を客観的に見れたと思うし、今後、何をしたいか、どうしていこうか、ということも色々と考えました。
色々考えたことの総括として、忘れないうちに今の考えを書いてみます。
意図を純粋に
旅行中から読んでいる本(アナスタシア・リンギングシダーシリーズ)の影響もあり、その本でもよく語られている言葉「純粋な意図」というのが、しばらく一番のキーワードとなりそうです。
何をやるかはそんなに問題ではなく、何をやるにしても純粋な意図で行う。
私は純粋な意図で日々行動しているか、と自問してみると、全然そうでない。どこがそうでないかというと、一番気になるところは、建前と本音が分離していること、つまり裏表ある生き方に慣れてしまっていること。
他者向けの自分、自分で持っているセルフイメージ、自分の本質。
その3つがバラバラになっている気がします。
他者向けの自分、についていえば、相手によって自分の人格も変わってしまっていると思います。英語を話す時の自分、ヨガのクラスをしている時の自分、家族といる時の自分。全部人格が違う。まあ、自分というのは他者との関係性で成り立つし、それぞれの役割を演じながら生きるのは当然といえば当然かもしれないけど、海外で英語で話している自分は一番「作ってる」感があるので、帰国して実家で親と話す自分とのギャップに罪悪感すら覚えます。。。
自分で持っているセルフイメージ。これも日々、毎秒毎秒変わります。ヨガでいう「心と自分の同一化」に完全にはまっている。特に最近、他者に読んでもらうための文章を書いている中で、「私はこう思う」「私はこうする」「私はこう考える」と書けば書くほど、自分をどんどん型にはめていっている気がして、実はちょっと息苦しさも覚えています。「私はこうだ」と書くことで、そうじゃない自分の可能性をなくして、自分の幅をどんどん狭めているような。
自分の本質。自分の魂や自分の本質、そういうことに考えを巡らせすぎて、大事なことを感じにくくなっているのかもしれない。考えれば考えるほど逃げていく類のものを、無理やり追いかけているような?考えるな、感じろ、といつも考えてるような(笑)
当面の課題:実家での快適な暮らし
課題を提示した後、唐突に私の今の課題を述べると、実家での住環境をとことん整えて快適に暮らす、ということ。
これまで、息子と二人暮らしをしていたのですが、今回のバケーションのタイミングで実家に引っ越すことに決めて(いわゆる出戻り)、旅行の前日にとりあえず荷物を全て実家に詰め込み、帰国してから実家に住む、ということになっています。
実家は家族の愛に包まれた環境なので心地よくはあるのですが、両親は二人とも昔から掃除片付けが苦手、というか、単純に掃除片付けの方法を知らないのだと思います。かつ、もったいない精神で物を捨てられない性格なので、実家はいわゆるゴミ屋敷に近い状態。
子どもの時から、友達を家に招いても、自分の部屋以外は絶対入らないで、とお願いしていました。
私自身も両親の血をしっかり受け継いでいるので、実家を出てからも、忙しくなったり生活が荒れてくると、家もバタバタ。他人を家に招き入れられるようになったのは、息子と二人暮らしになって生活が落ち着いてから。
ヨガのインストラクターをしながら、「体を整えるのと同じく、住環境も清浄(シャウチャ)に」なんて言いながら、自宅を他人に絶対に見せられないような私生活を送っていました。
アメリカで滞在していた親戚のおうちや、訪れた知り合いのおうちは、どこもとてもきれいに整理されていて、装飾品が飾られていて、ホテルや美術館に住んでいるような生活を送っている。しかも、この部屋は入らないで、みたいな開かずの間もなくて、どの部屋もきれいだし、寝室まであけっぴろげで家に招いたゲストの誰でもオープンに迎え入れている。
住んでる人たちは、知らない人でも通り過ぎる時は笑顔で会釈するし、話しても優しい人ばかり。広々とした牧場がひろがる田園風景、太陽にきらめく木々、周囲の自然と調和してよく手入れされたおうちと、そこに住むナイスな人たち。アメリカにいながら「能登は優しや土までも」という言葉を思い出しました。
そんな環境から帰国して実家に戻ると、天地の差とも思える住環境が待ってました。分かっていたとは言え、現実を突きつけられました。
引っ越し前に何度も実家に通い大掃除をしたのですが、それでもまだまだ快適というには程遠い。
なんでここにこれが置いてあるの?なんでここ汚れてるのに誰もふかないの?これどうみても必要ないのになんで捨てないの?なんで?なんで?なんで?
疑問がいつしか怒りに変わっていきます。帰国翌日から鬼のように掃除片付けに明け暮れました。そして、年老いた両親に対しての言葉遣いもどんどん荒くなっていく。ノーストレスの生活からストレスボルテージが振り切れる生活に。
私はあまり怒らない性格、と思っていたし、周りの人もそう思ってる人も多いと思うのですが、奥底に秘められた怒りがこんこんと湧き出てきてます。親に関することは自分にも当てはまることが多いので、本当に根が深い。
両親は二人とも子供・孫想いでとても優しい性格。仲が悪いわけではありませんが、色んな分野で考え方も異なり、特に母親は私にとってなかなかの曲者。
人当たりはいいのだけど、身内に対しては口先からまずネガティブな言葉が出る(特に父親に対しては完全サディスト(笑))とか、掃除をしないわりに変なところだけ潔癖症(特定のエリアだけは常にハイターで除菌)だったり、物事のやり方に人には理解できない不思議ルールが山ほどあり、私の怒りスイッチをポンポン押してきます。
実家に引っ越すというのは、それも分かった上での決断でした。自分の住む家を快適なものにする、ということに、それができない元凶である(と思っている)両親も巻き込んで、両親が元気なうちに、断捨離・整理整頓された快適な暮らしを経験する、という一大プロジェクトです。
「自分は素敵なおうちに住んでるけど、年老いた両親は実家のゴミ屋敷に住んでます」という状態をなんとか回避せねば、という思いもありました。
ということで、アメリカでじっくり考えて、何かインスピレーションを受けて新しいことを始めたり、何かをやめたり、大きな変化があるのかな、とも思いましたが、色々考えた末に結局一番モチベーションが上がったのが、実家で快適に調和して生きる、というチャレンジでした。
SATTVA LABでのお仕事(ヨガ、アーユルヴェーダ、ippon blade)はこれまで通りゆるゆるとやらせてもらいながら、当面、私生活のクオリティを上げることに頑張ります。
ゴールは裏表ない生き方
「SATTVAな生き方」というテーマで研究している私ですが、その定義の一つとして「裏表ない生き方」があると思っています。
自分の生活を整える。
食べるもの、身につけるもの、運動習慣、その辺はもう十分に整えられていると思っているのですが、ずっと蓋をしていた裏の部分、つまり、シャウチャ(住む環境を清浄にする)と、両親との関係性にいよいよ取り組むのです!裏の部分がなければ、何かを隠すこともなく、罪悪感もなく生きていけるので、物事がシンプルになり、言動の意図も純粋になっていくのだと思います。
昔、あるお坊さんから、「本当に素晴らしい先生を探すには、その奥さんにその人がどんな人か聞いてみるといい」みたいなことを聞きました。一番の身内、配偶者からも尊敬されている人こそ尊敬に値する、というような話だったと思います。
少しくらい裏や影があるほうが、人間的には魅力的なのかもしれませんが、私が自分の裏の部分をいつも気にしながら生きてきたのも事実だし、裏表な生き方、という言葉にこれほど惹きつけられるというのは、負の部分の自分に対しての罪悪感がかなり大きくなっているという自覚があるので、ここでそのことを明らかにして、有言実行を頑張っていきたいと思います。
とは言え、本当の本当の裏の部分についてまで、ここに書くことはまだしません。と、含みを持たせて、ちょい悪アピールしつつ(笑)、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
実家暮らしの経過報告もまた時々書きたいと思いますのでお楽しみに!
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