2024年1月5日 雑記「自分で判断できるようになることの重要さについて」
僕がVTuberを始めた2018年からずいぶんと長い時間が流れ、様々な"売り"を持ったVTuberが活動するようになった。当時から「学術系」として活動する者は一定数いたが、現在存在する「学術系」VTuberはさらに多岐に渡る。ちょうど昨日知ってフォローさせていただいた民俗学系VTuberの天道巳弧氏はその一例だし、明確に「学術系」と名乗っておらずともKYOTOU氏の
ように哲学の知識を生かして活動しているVTuberもいる。堅苦しいアカデミックな話を親しみやすく話してくれるこのような活動は非常に面白く、公益性も高いのでどんどん増えていってほしい。僕も過去に二度修士号(数学と情報学)を取り、哲学のジャーナルに論文を投稿してアクセプトされたりもしていたので、そのあたりの知識を活用した何かをしていきたい。
↑天道巳弧氏の民俗学入門ブックガイド。最初の2冊を買ってみた。
↑KYOTOU氏の読書会。1/16から新しい本を読み始めるらしいので初見の人も聴ける。
こうした専門知識を広めてくれるVTuberは大変にありがたいが、情報を受け取る側はただ受け取るだけではよくない。以前、博士号を持っていることを公表しているVTuberが論文を引用して「○○は△△である」と広めているツイートが流れてきたことがある。論文の中身を確かめてみると、実験デザインにかなり大きな問題があり、「○○は△△である」と結論付けるのは無理があった。統計的には厳密に確かめられていないけど多分そうなんじゃないか、とすらも思えない程度だった。著者も(おそらく統計学の知識があまりないんだろうな、という様子ではありつつも)「○○は△△である」と強く言えないことは自覚できており、論文の結論部分ではかなり慎重な言葉遣いになっていた。
このケースでは注意すべき点はふたつあった。ひとつは、「論文」は必ずしも「事実」が書かれたものではない、ということだ。必ずしもそうとは限らないが、多くの場合論文は
① 研究者Aが論文Xを執筆する
② 研究者Aがその分野ZのジャーナルYへ論文Xを投稿する
③ ジャーナルYから依頼された分野Zの研究者B(1人とは限らない)が論文Xを読んで査読を行う
④ 掲載基準を満たしていると判断されれば論文XがジャーナルYに掲載される
というフローを経て世に公開される。論文Xの内容に問題があっても研究者Bが適切に査読していれば弾かれるのが理想の状態だ。しかし、ジャーナルYがまともな査読をしないいわゆる「ハゲタカジャーナル」であればでたらめな内容でも通ってしまう危険がある。批判論文が書かれるなどして分野Z内で批判されたり論文Xが無視されたりすればまだいいのだが、例えばZが全体として「統計を用いるのに統計学をまったく解していない」ような分野であれば誰も訂正できずに論文Xが「事実」として扱われてしまう。残念ながらこれはレアケースではなく、統計で何かをやる分野は程度の差はあれどほとんどこの問題を抱えていると感じる。数学の世界にいた僕のジャッジが厳しすぎる、と言われれば否定はできないけれども。
もうひとつは、専門家だからといって正しいことを言っているとは限らない、ということだ。Zが「統計を用いるのに統計学をまったく解していない」分野であれば、その分野の論文Xを紹介する者もそうである可能性は高い。論文Xの本文では「○○は△△である」と強く言えないことが注意書きされていても、紹介者がそれを無視して「○○は△△である」と解釈してしまうこともある。博士号を持っていても実際にそれをしてしまう者はいるし、いつもは大丈夫でもたまたまそのときだけ集中力が落ちていたりバイアスのある状態で読んでしまったりして見落とすこともあるだろう。
これらのことから、専門家から与えられた知識を自分の頭で吟味できるということの重要さがわかってもらえると思う。我々非専門家は、現実的には専門家に判断をアウトソースしなければならない場面のほうが多い。それでもわからないなりに本文をよく読んでみて、自分たちに可能な範囲でそれが信憑性のある結論かを批判的に検討することを、せめてやっておこうという気持ちを強く持つこと、これはできるだけ心がけていただきたい。
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