『草木図説』の中の玉川ホトトギス-牧野富太郎と飯沼慾斎
今年ほど、植物関連の本が多く発刊された年はなかったのではないか。それには朝の連続テレビ小説『らんまん』の影響がとても大きいと思う。牧野博士サマサマだろう。
牧野富太郎と伊吹山の関係については以前書いたけど、岐阜県大垣市は伊吹山からほど近い場所にある。現在伊吹山にはJR関ケ原駅前から山頂に行くバスが出ているが、大垣までは関ケ原から東へ二駅。
この大垣に幕末、飯沼慾斎(いいぬま よくさい)という人物が住んでいた。職業は医者である。当時の医学は漢方が主流で後に蘭方(ヨーロッパの医学)が盛んになるが、医学には薬がつきものである。この薬の原料として古くから研究されていたのが植物だった。
慾斎も最初は医学の方から入ったのだと思われるが、次第に植物の魅力に取りつかれ、のめりこんでしまったようなのだ。
『草木図説』という日本で初めてスウェーデンの植物学者・リンネの分類を用いた植物図鑑を著した。リンネによる植物分類とは、一番わかりやすいものでいうと、雄しべと雌しべの数による分類だった。今なら植物には雄しべと雌しべがあることはだれもが知っているが、江戸末期までは植物の生殖について興味を持つような日本人はいなかったのだ。
慾斎は直接、リンネから教えを受けたわけではない。そもそもリンネは来日していない。
ではだれがリンネの植物学を日本に伝えたか。
幕末期で日本を訪れた外国人は何人かいるが、中でも著名なのはシーボルトだ。シーボルトはドイツ人だが、外見からはドイツ人なのかオランダ人なのかわかりはしない。オランダ語は下手だったようだが、とにかく出島を介して入国すれば、外国人はみんなオランダ人と見なされたようである。実はシーボルトは医師であると同時に優秀なプラントハンターだった。ヨーロッパにはない日本の植物を外国に持ち帰ることによって栽培・研究に努め、その後の園芸品種の作出などに多大な影響を与えた。アジサイなどが日本に逆輸入されているのはそのためである。
慾斎と仲の良かった尾張の医師・伊藤圭介は直接シーボルトに教えを受け、慾斎は伊藤からリンネの植物分類学について学んだのである。
優秀なプラントハンターはシーボルトだけではない。リンネの愛弟子のツュンベリーも日本を訪れ、西洋に多くの日本の植物を伝えた。シーボルトは彼の著した「フロラ・ヤポニカ」を伊藤に与え、伊藤はそれをもとに『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著し、リンネの植物学を日本に伝えたのである。つまり、それまでは、日本に純粋の植物学というものは存在しなかったということになるだろう。
「らんまん」の万太郎はその才能故、学者たちとの軋轢があったようだが、慾斎もまた同様の問題はあったらしい。当時、いわゆる殿さまに仕える藩医と呼ばれる人たちと、そうではない市井の町医者とは一線を画していた。飯沼医院は相当繁盛していたらしいので、藩医やほかの医者たちはおもしろくないこともあっただろう。そんなこともあってか、慾斎は50歳で隠居。それから10年ほど経って「草木図説」に取り掛かるのである。
詳しくは「和樂web」の「『らんまん』の牧野富太郎博士もリスペクト!幕末の博物学者・飯沼慾斎の植物図鑑『草木図説』」をどうぞ。
ところでこの飯沼慾斎が遺した『草木図説』の中に玉川ホトトギスという植物が登場している。ホトトギス草にはいろいろ種類がある中で、ほかとは少し違った姿かたちだったので掲載したと書かれている。この玉川ホトトギスの採取地だが「吾郷多良山中には」とあり、白花の玉川ホトトギスがあると書かれている。医者であった慾斎は当時多良を収めていた旗本高木家と懇意にしており、その関係で多良の山に入ることができたのだろう。慾斎は伊勢亀山の出身で、多良という場所は三重県北部のいなべ市に隣接している所から親しみもあったのかもしれない。
いろいろ調べていくうちに植物学の系譜についても学ぶところがあり、進化の道筋をたどっていくようでとても興味深い。
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