鎮守の杜と災害大国から見たSDGs(Ⅲ)
「鎮守の杜」と聞くと,一般の方は【神聖】なイメージを持つのではないだろうか。一方で,神職の方々は,「落葉掃きが大変」「台風で社殿などに木が倒れないか心配」など,いわゆる【厄介】な一面を持つ方もいらっしゃるかもしれません。今回より三回にわたり「鎮守の杜」について特集するが,皆様の知らない「鎮守の杜」の歴史・機能・創り方・管理方法について紹介したいと思う。
東日本大震災の津波を耐え抜いた「鎮守の森」
平成二三年三月一一日に未曾有の災害が日本を襲い、死者・行方不明者の数は約二万人とされ、過去一〇〇年間において約一〇万人の死者・行方不明者数を出した関東大震災に次ぐ二番目の天災となった。その中で死因の割合は九割が津波に巻き込まれたことによる溺死とされる。いかに津波の威力が強く、人智を超えた現象なのかこの数字から読み取れる。しかし、そのような津波にも耐え抜いたのが【鎮守の杜】である。岩手県上閉伊郡大槌町・吉里吉里に鎮座する天照御祖神社はタブノキ、シロダモ、ヤブツバキ、マサキ、ケヤキなどその土地本来の木々によって構成された【鎮守の杜】である。
その一方で、東北沿岸の人工林であるマツ・スギ・ヒノキは惜しくも流されてしまった。また、直接津波で倒木しなくとも、津波で海水に浸ったスギは約三ヶ月後には葉が茶色に変化し最終的に枯死する個体が多く見られた。天照御祖神の「鎮守の杜」の木々も海水に浸ったため葉が茶色に変化し落葉したが、枯死することなく次の年には花も実もつけた。もう一つ大事なことは「鎮守の杜」の背後の家屋が津波の被害から守られたことである。東北沿岸では慶長・延宝・寛政・安政・明治・昭和三陸地震など幾度も地震と津波を経験し、各地で防潮堤をつくり津波に備えていたが東日本大震災で効力を発揮することはなかった。その中でも、岩手県宮古市田老地区(旧田老町)は町全体を囲む総延長二四三三メートル、高さ10メートルの長大な防潮堤を昭和五十四年(一九七九年)に建設し、かつては「万里の長城」と呼ばれていたが、これも東日本大震災の津波を食い止めることはできなかった。果たして、現在の東北沿岸の巨大防潮堤のように地上と地下に何十メートルもの構造物をつくって、未曾有の天災に対応できるのか疑問に思う。それよりも、山川海と繋がった自然を分断することの弊害がゆっくりと人々に近づいてくるだろう。
「奇跡の一本松」は本当に奇跡なのか
次に東北沿岸で大規模に植樹されているマツについて触れる。岩手県陸前高田市の沿岸にはかつて約七万本のマツが生育していたが、津波で一本のマツだけが残った。このマツは「奇跡の一本松」と呼ばれ、翌年に枯れたが復興のシンボルとしてレプリカが設置されている。約七万本のマツのうち一本だけ残ったのは奇跡ではあるが、本当に目を向けるべきは六九九九九本のマツが流された事実である。
マツは白砂青松、門松、雪中松柏など色々と文化や伝統のある植物の一つではあるが、津波に対しては強くないため多重防災・減災の観点から【鎮守の杜】も必要だと考えられる。マツの自然林は海岸で見られ、前述したタブノキ、マサキをはじめとしたシャリンバイ、トベラなどと一緒に生育し複層構造の森になっている。それに対して、落ち葉かきをしたマツの純林は【景観】としては良いかもしれないが、【生態】や【防災】には効果を発揮していないと言える。地上の森に多様性がない場合、地下の森(根)にも多様性はなく、地震、台風、津波、火災などあらゆる災害に対して対応できない可能性がある。以上のように東北沿岸でマツやスギが防災効果を発揮していない事態を受け、東北沿岸に【森の長城】をつくる構想を宮脇昭先生(横浜国立大学名誉教授)が国や自治体に提案し「一般財団法人瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」(現:公益財団法人鎮守の森のプロジェクト)を平成二十四年に立ち上げた。私自身は宮脇先生の最後の弟子ということもあり、設立当初から植生調査や植樹祭、育樹祭、育苗講習会、ドングリ拾いなどに関わり、これまでに東北沿岸で五〇万本以上の植樹に携わってきた。その時に植生調査やドングリ拾い(母樹)の際には東北各地の【鎮守の杜】にお伺いさせていただいた。この事業は現在も続いているが、構想だけで終わらずに実施できたのは【鎮守の杜】が残されていたからである。
「鎮守の杜」の創り方
ここでは「鎮守の杜」を創る手順を専門的な手順は割愛しながら紹介したいと思う。まず、植樹地の場所から近い「鎮守の杜」を数ヶ所にわたって植生調査し、その土地本来の木々を判明させる。次に植樹地の土壌を耕運して、子供が歩くと軽く沈み足跡がつくような「ふかふか」のマウンドを造成する。植樹面積は広い方が好ましく、難しい場合は幅一メートルでも構わない。マウンド上部は平にはせずに尖らせるように傾斜三十度以上で盛り、植樹地の土が崩れないように周囲には丸太や柵を設置する。植樹の際には三~四年生苗木(ポット苗:容器直径約十センチ)を一平米に三~四本植樹し、植樹後に土が露出している場所には稲藁を敷き詰める。
事前に周囲約六〇センチ間隔で打ち込んだ竹杭(約六〇センチ)の上部に、わら縄などを結び他の杭に向かって伸ばし結ぶことで稲藁が飛ばないようにし,雨滴浸食防止,蒸発防止,雑草発芽防止の役割を担う。資材については数年後土壌に還る素材を使用するものとする。
植樹した苗は成長し数年後には隣の葉と触れ合うことで競争しながら共存して、五年後には五メートル近くまで成長する。植樹後の三年間ほどは除草(育樹祭)が必要だが、木々がある程度成長すると林内が暗くなることで雑草と呼ばれる光発芽種子は発芽できずに衰退し、メンテナンスフリーかつあらゆる災害にも強い【持続可能な森】となる。植樹する樹種は場所によって異なるが少なくても二十種、九州など多い場所では五十種近くまでになる。この植樹方法の良いところは子供から大人まで、国や性別関係なく、みんなで足元からできる点にある。その反面、準備までは植物にある程度の専門的知識が必要になってくるため、最初の敷居が高いように感じるかもしれない。しかし、皆様は【鎮守の杜】を既に知っており、【母樹】となりうる木々の存在も見えている。今こそ、境内の木々を判明させ、それが何の意味を持ち、どのようにその土地と自然が共存・共栄すれば良いのか、その【道】を照らす岐路に立っている。
人工的に創られた「明治神宮の杜」
過去に創られた【鎮守の杜】として有名なのは【明治神宮の杜】だと思われる。私は第二次明治神宮境内総合調査の植物班調査員として、神域である明治神宮の森に入り植物の種類を調べ、樹木の高さ・大きさを計測した。現在、「明治神宮の杜」は高木層にスダジイ、シラカシ、アラカシなどが二五メートル近くまで成長し、亜高木層にヤブツバキ、サカキ、ヒサカキ、シロダモなど、低木層にネズミモチ、ヤツデ、アオキなど、草本層にジャノヒゲ、ベニシダ、テイカカズラなどが生育する豊かな森となっている。
しかし、百年前にはマツなどの木が点々と生えるだけの荒地だったのは、現在の姿からは誰も想像できない。明治神宮の森は全国から約十万本もの集まった献木を、数年かけて植樹することで創られた人工の森である。そもそも、先人たちは何を目指して「明治神宮の森」を創ったのであろうか。百年前、時の首相である大隈重信は「日光東照宮や伊勢神宮のようなスギを主体とした森を創りなさい」と命じた。しかし、本多静六、本郷高徳、上原敬二らの学者は様々な実験を行い、スギが東京の土地に合わないことを証明し、荒地でも生育できるマツなどの針葉樹と、将来森を構成する常緑広葉樹を混植する方法を提案した。彼らが目指したのは〇年、五〇年、一〇〇年、一五〇年の四段階を経て完成する、「永遠に続く森」である。この森が現代の科学と技術を用いれば三十年近くで創れる、それが前述した植樹方法である。また、明治神宮の森は大正十二年(一九二三年)の関東大震災による災害を乗り越え、さらに昭和二十年(一九四五年)の空襲によって明治神宮の本殿は焼失したが森は生き残ったことで災害に強いことを証明している。まさしく、【生態・景観・防災】が揃った森と言える。日本の【鎮守の杜づくり】は百年前から数百年先を見据え、樹種や成長も記録しながら行ってきた。あまり知られていないが世界から見たら日本の森づくりは最先端をいっており、私がフランス、ジブチ、ヨルダン、インド、韓国などで植生調査や植樹指導、苗木生産の現状を見てきたが、日本が一番進んでいると実感している。日本において私自身は【里山ZERO BASE】プロジェクトで全国の【鎮守の杜】をつくり邁進している。
最後に
三回にわたり【鎮守の杜】について紹介してきましたが、皆様が持たれている【鎮守の杜】のイメージを良い意味で少しでも変えられたら幸いに思います。最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。記事を【読んで終わり】の時代は過ぎました。【知識と経験は責任と比例する】、既にあなたも【鎮守の杜づくり】の一員です。共に前向きに木を植えましょう。
※このnoteは月間若木2月号(令和4年)より加筆修正したものです。
<著者>
株式会社グリーンエルム代表取締役社長
里山ZERO BASEプロジェクト代表
林学博士 西野文貴