見出し画像

数値化とか結果とか

お久しぶりです。さとうさです。
前回記事は脱グループホーム直前だったでしょうか。
脱グループホームして、うまくやれてるよ!的な記事だったらよかったんですけどね、そんなことないんでそこは触れずに。

 最近Xで「ソーシャルワークの数値化」の話があったので。
 ちなみに私は公衆衛生学(社会の健康)をバックグラウンドとし、EBMや診療ガイドラインの大家から教えをいただいているので、自分では何かはできないけれど、その価値や限界については人並みには理解しているつもりです。
 対人援助を数値化する試みは簡単じゃないけど、ドナベディアンの医療の質評価の方法は福祉にも応用できると思うし、クオリティ・インディケーターを作成するところから「支援の質ってどういう要素があるだろう?」って議論をすることはそれ自体にも価値があると思ったりもします。

 けどね、EBM(Evidence Based Medicine: 根拠に基づく医療)の大家こそ、エビデンスが万能でないこと、その限界を述べているわけですよ。そこについて語ると大学院2年分の学びなのであつくなりすぎるからやめておくけども、特に対人援助職について、そんな簡単じゃないよねってのは当たり前でありつつ、そこで話が止まってしまうのもなんかもったいない。

 だからこそどうして簡単じゃないかを。バリバリ個人情報を漏洩しましょう。あ、いいんですよ。これ私のケースだから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【とあるさとうさのケース】
 医療保護入院しました。隔離拘束解除までの日数は〇日です。医療保護の日数は〇日です。精神科急性期病院を3か月以内に退院させ、しかもPSWの手伝いで区分認定の手伝いからGH入居までいきました。区分4です。PSWに言われたのは「今ここで入居決めないと、次いつ退院できるかわかりませんよ!」でした。
 ただ、同じ病院に退院後1か月で再入院しました。色々あってその病院の外来をその後希望しましたが、断られました。
3か月以内で退院して居住先もみつけたけどすぐ再入院、その後中長期的にみて障害大悪化、は退院支援は成功なんでしょうか?
 
 退院後、別施設のデイケアに行きました。そのデイケア修了者の社会復帰率はめちゃ高いです。ただレベルが高いので、私は本利用にすらいけませんでした。体験利用(2か月)の間で、本利用にすら至ってないので、脱落の数字にも入りません。悪い結果になるものは数字に入れない、これも数字の使い方の一つです。
 
 その後しばらくして地活にいきました。面倒見が良いと評判のところで私も大変お世話になりました。でも重荷になられて「もっと治療頑張っておいで?」と言われました。主治医には「地域生活こそ治療」と言われました。軽めの人を集めてるから居心地が良いのでしょうか。それも一つのやり方なのでしょう。
 
 GHに入ってからついてくれていた基幹相談の母体、ちょこちょことニュースになるレベルで問題になります。だけどもね、私だけでなく「ここでしか受けてくれない」人ってのがいます。
 幹部が受けるだけ受けて現場が回らないっていう課題は、年々ひどくなっているからそれがいいこと!とはいえないけども、「支援しやすいひとだけ集めている」法人ではない。じゃあその問題の数を減らすことだけを求めて、「支援しにくい人」を切り捨てることが正解なのか?ここであがる問題の数が悪い支援で、問題がないことが良い支援か?っていうと方々で切り捨てられ、ここには切り捨てられなかった身としてはそんな簡単なモノとは思えません。
 そもそも、虐待の類はきちんとあがることがまともなことのように思えるこのポイズンな世の中です(すごいの沢山表に出ないで隠れてるよ)
 
 さて、区内の相談支援従事者では誰もが悪名高いものとして知る、もといたGH。区分4の私を5年半くらい?大きい事故なくおけました!という成果になるんでしょうか。基幹相談支援センターや生活支援センターがGHの何もしなさにあきれてしてくれていた支援の数々があって生きてきたってのもそうだし、区分4,5 は一貫していたけど、手帳は3級から1級になりましたね。
 つらいこと、かなしいこと、絶望がたくさん積み重なった結果、生活機能が低下した「廃人」系の「飼い慣らしやすい」障害者になりました。
私の平均歩数は1/3-1/4程度になりました。ただ、超絶ストレス時の衝動行動以外はメンタル安定しているので、入院のリスクは減りました。事実、入院回数は激減したし、最後に入院してから2年がたちます。

 ここから思うのは、どの時点で切り取るか、誰の目線で何を評価するかで支援の効果の見方は変わってくる。そして支援の効果だけを主軸に置いたら、私なんかは関わらないのがそもそも吉ってことになる。ってことです。
 でも医療も福祉も超雑に言えば、困っている状態や人をなんとかするためにあるものなのに数字で評価することにこだわると、その評価基準にのれない人を好ましく思わないために目先の人を切り捨てるようなことも起きるし、実際経験してきました。
 数値化して示すってことは、指標を決めるってことでもあるので、その価値と限界とリスクはちゃんと意識しておかないとなって研究職していた時もいつも思っていました。

 質を評価することを諦めたら発展はないけど、数字は事象の一面を切り取ったものでしかないともいえる。そして、その切り取り方に恣意性があることだってままある。恣意性がなくても、意味あるデータと言える取り方をするには色々な工夫がいる。かといって数字で示すことに意味がないかといえば、意味はあるし、それでこそ発展していくものも多い。
 けども数字で表したり、数字で評価することにこだわって、本質を見失うことは絶対に避けなければいけない。
 

 数字で評価すれば客観的なものになるわけでもないし、出された数字を見る方の読み取る力も必要になる難しいものです。
 だってさ、ちいかわランドに並んでる人10人に「あなたはちいかわが好きですか?」って聞いたら100%好きって言うに決まってるし、デイサービスで聞いたら「ちいかわって?」ってなる人もいるじゃん?多分。数字ってそういうものなんですよ。
 
 そして、何よりこの分野特有の課題として、「その評価軸は意味ある評価軸なのか?」ってことがあるかと思います。そして誰にとって意味のある評価軸なのかってことも。
 
例えば外に出るのが苦手だった人が周りの促しによって日中活動の通所回数が増えました。と言えば一見支援の効果のように思えます。けども、本人の苦痛が増していたら?体調が悪化していたら?とかさ。

 結局その数値化や評価は誰のために?そして誰かがそれで幸せになるんか?ってのは問うていたいです。

 とか色々いったけど、私は業界とか社会とかって規模では生きてないので、宙に向かってこの言葉を投げておきます。ぽーん…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?