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逆だったかもしれねぇ/今起きているジェノサイドについて
大学生のころ、あさま山荘事件とそれに関わる一連のWikipediaを読みふけっていたことがある。革命を目指し、どんどん先鋭化して仲間殺しに至った彼らについての記述を読みながら、自分がこの時代に生まれていたらこうなっていても何らおかしくないと思ったことをよく覚えている。パキパキに見開いた眼で「総括」している自分の姿はかなりリアルに想像することができて、温かい部屋で背筋が冷えた。
僕は自分の中の原理主義を全うすることが非常に好きで、今はその対象が料理や有酸素運動に向かっているから、何とか社会とうまいこと繋がってやれている。もし自分が太平洋戦争のころに青年だったら、陸軍とか入ってただろうと思う。
現代日本の一般的な価値観からすると過激で、理解できない原理主義による事件に触れるたびに、有名なNARUTOのコマ「逆だったかもしれねぇ」を思う。生まれる場所と時代が違えば、自分はどうなっていただろうか。
飛行機をジャックしてビルに突っ込んでいたのだろうか。
イスラエルとパレスチナの間で起きているジェノサイドについて、これまで全く発信してこなかった。今年の8月ごろに岡真理先生の「ガザとは何か」を読み、現在起きていることが歴史に残る犯罪的な虐殺であると知った。その日からずっと頭のバックグラウンドにパレスチナの虐殺がある。
イスラエルはガザを封鎖し、そこでの生活を破壊し、まとめて殺そうとしている。滅ぼしてしまえば死人に口なし、争いは起きないという無茶苦茶な行動だ。そのイスラエルの凶行を日本含む先進国は止めない。アメリカは虐殺を続けるイスラエルを支持し続ける。
ここで、「逆だったかもしれねぇ」を考える。僕がガザに生まれていたらどうなっていただろうか。まず間違いなく、イスラエルとそれを止めない国すべてを憎み、命に代えてそれらの国に破壊をもたらしたいと願うだろう。
ガザに生まれた世界戦の佐藤とリアル佐藤(ぼく)が対峙した時、僕は何を言うこともできない。「マックとスタバには一切行ってません」とか、言えない。先進国のお前ら全員が、俺たちを見殺しにしたと言われたら、本当に何を言うこともできない。
自分が世界中どこに生まれどう育っても、世界を憎み人を殺す原理主義者にならないような世の中であってほしい。そういう祈りがある。
海の向こうで民族ごとすりつぶすようなジェノサイドが現在進行形で起きている。その事実を知って、どう行動し、生活することが、ガザに生まれた佐藤に顔向けできる態度なのだろうか。これは難しい問いで、多分答えなんてないんだけども、だからと言って棚上げにして何も変わらない日々を送ることを正当化することはしたくないなと思う。とりあえず球磨川100kmが終わったらデモに行くぜ!