【6分ショートショート】すごい
おれはいま、あのときの嘘を心の底から悔やんでいる。
おれは高いところが苦手だ……いや、苦手なんてもんじゃない、怖くて怖くてたまらない。気持ちの問題などと、軽くあしらわないでほしい。アクロフォビア――いわゆる高所恐怖症、という診断名のつく、れっきとした精神疾患なのだ。
高いところに行くと強い恐怖を感じ、動悸や目眩に襲われる。さらに厄介なのは、実際に高いところに行かなくても、想像しただけでパニック発作に襲われることだ。自分の意思では抑えることができない。高層建築や断崖絶壁に近づいただけで、震えが止まらず吐き気をもよおしてしまう。
病気なのだから治療法はある。あるにはあるが、ずっと受けてこなかった。症状が出そうな状況を、自分で避けることができるからだ。治療費は安くはないし、時間だってかかる。高いところに近づかなければ済むだけのことなのに、なぜわざわざ治療を受ける必要がある、と思っていたからだ。
だがそれは、大きな間違いだった。
半年前、おれはある女性にプロポーズした。
もっとも、知り合ったのは遙か昔だ。幼馴染みといってもいい。互いに徒党を組んでは、泥だらけになって公園で覇権争いをした仲だ。おれは突撃専門の戦闘員だったが、彼女は女の子たちのボス格で、よくジャングルジムの天辺に陣取った彼女から蹴落とされたものだった。
思春期に一度つきあいは途切れたが、地元の集まりで再会したとき、おれは一瞬にして恋に落ちた。情報関連のスタートアップを起業したという彼女は、美しい女性になっていた。幼虫から蝶への完全変態、という恥ずかしい比喩を用いたくなるような、鮮やかな変容ぶりだった。さらに驚いたことに、彼女の方もおれを憶えていて、親しげに話しかけてくれた。こちらもアグリテックの企業を立ち上げたばかりだったこともあって意気投合し、すぐにつきあうことになった。
だがおれは、このころすでにアクロフォビアを自覚していた。デートコースを選ぶのもひと苦労だった。彼女の高いところ好きは相変わらずなようで、観覧車に乗りたがったり展望台に登りたがったりしたが、おれはのらりくらりと避けつづけた。本当はエレベーターに乗るのだって怖いのだ。
プロポーズのときだって、彼女がいつかは行きたいといっていた高級ホテル最上階の有名レストランを予約したが、できるだけ窓から離れた席に案内されるよう密かに手を回したほどだ。
必死に恐怖と闘った甲斐あってか、彼女はその場でプロポーズを受け入れてくれたものの、
「結婚式はぜったい宇宙で挙げたいの。ウエディングフォトは地球をバックにお姫様抱っこって決めてたから。それで、いいかな」
と、上目遣いで条件をつけた。そのときのおれは、恐怖と歓喜でおかしな興奮状態だったのだろう。気付いたときには、
「はい、よろこんで!」
と居酒屋のバイトみたいな返事をしていた。
すぐに、しまった、と我に返った。
間抜けな返答をしたことにではない。とんでもない嘘をついてしまったことにだ。なにが、よろこんで、だ。よりによって彼女は結構の条件に、宇宙に昇ることを要求しているのだ。歓喜の頂点から絶望のどん底に蹴落とされた気分だった。
だが、
「ありがと、うれしい」
と微笑む彼女の表情を見てしまったら、もうなにもいえなかった。
ブライダルプランナーとの打ち合わせで、宇宙エレベーターができてから結婚式や披露宴を宇宙で開くのがちょっとしたステータスになっていることを知った。プランも豊富に用意されていて、高度百キロでの手軽なショートコースから、ハネムーンを兼ねた静止軌道ステーションでのフルコースまで、規模も金額も各種取りそろえております、とのことだった。
彼女の希望は、静止軌道ステーションで式を挙げ、地球をバックに写真を撮ることだった。その他のこと、たとえば披露宴などには、一切こだわりがないらしい。けろりとした顔で、
「そんなの地球に帰ってからパーティでも開けばいいじゃない」
と断じる一方で、
「静止軌道ステーションって地球の一番高いところなんだって」
と目を輝かせた。
静止軌道は高度三万六千キロだ。富士山のざっと一万倍、想像を絶する高さである。考えただけで心臓がばくばくし、尻の穴がむずむずしてくる。マンションの中層階ですら怖くて住めないのに、そんな高いところまで昇らなくてはならないなんて……なんという嘘をついてしまったんだと、頭を抱えた。
そしておれはいま、静止軌道ステーションの撮影スタジオにいる。
もちろんこの半年間、できるだけの治療を試みた。認知行動療法も受けたし薬も処方してもらった。だが、認知行動療法で解決するには期間が短すぎ、よく効くといわれる薬は性機能障害の副作用がひどくて諦めざるをえなかった。
だから、静止軌道ステーションまでの宇宙エレベーターの旅も、発作が起きないように細心の注意を払って対処してきた。
出発地の海上ターミナルでは、宇宙エレベーターの天に伸びるケーブルと一緒にフレームに収まることができるという撮影スポットに連れていかれたが、赤道直下の太陽光を避けるためと理屈をつけてつばの広い帽子を被り、足元以外は見ないようにして切り抜けた。目には恐怖が滲んでいただろうが、そこは濃いサングラスをかけて誤魔化した。
静止軌道ステーションまで昇るクライマーに乗りこんだあとは、最下部にある展望室に再三誘われたが、乗り物酔いを装い、到着までの一週間、部屋から出ずに乗り切った。
だがついに、年貢の納め時だ。
「では、これから撮影に入りますねぇ」
ウエディングフォトの撮影スタッフが明るい声でいった。
「この部屋の地球側の壁はいまは不透明になっていますが、じつは一面ガラス窓になっております。撮影の都合上、部屋を暗くしてから窓を透明にいたしますので、おふたりにはその前でポーズを取っていただきます」
純白のドレスに身を包んだ彼女が、
「お姫様抱っこ、おねがいね」
と甘え声でささやいた。
おれは平静を装うのが精一杯で声を出せず、黙って彼女の身体を抱きあげた。無重力状態なので訳はない。だが、抱きあげた勢いでうしろ向きにゆっくりと回り始めてしまう。
「はーい、そのままそのまま。地球の前に浮かんでいるようにこちらで撮影のタイミングを調整しますので、どうぞご安心ください」
安心しろといわれて安心できるわけがない。ガラスが透明になれば、三万六千キロの高さと対峙することになる。心拍は急上昇、脳の血管が切れそうだ。喉はカラカラ、顔面からは血の気が失せ、脂汗がしたたり……いや、無重力だからしたたることはないのか――。
「では、照明を消して、窓を透明にしますねぇ」
スタッフが無情に告げると、スタジオ内が真っ暗になった。
おれは硬く目をつぶった。
そのとき耳元で、短く息をのむ音がした。
つられるように目を開ける。
「……すごい」
目の前に、地球があった。
肉眼で見る地球は、美しかった。
恐怖は感じなかった。
高いところにいるという感覚ではない。
手を伸ばせば届きそうなところにある、それだけのことだ。
おれは彼女に、驚きの目を向けた。
「ね?」
彼女が優しく微笑む。
「怖くないでしょ」
おれは抱きしめることでしか、感謝を伝えることができなかった。
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