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目クジラのたった顔で、月を眺める

目くじらのたった顔をしているのだろうな。
帰路の電車の階段でワタシの今の顔を考えました。

必死です。
結局、ムスコの進学への執着を手放せていません。
生きてめでたし、なんて思っていても、いざ、アウトになるかもが頭をもたげると、むくむくとざわざわと、執着、コースアウトへの恐怖、めんどうだなぁへの不安が、ゾンビのように蘇ってしまうのです。

今朝、何とか起き上がり身支度を始めたワタシ、ムスコは中々うごかず。言いたいのを抑えてこらえて見に行くと、寝床でゲームをしてました。その後、シャワーを浴び、出かける前に千円くれと。大事に使ってよ、昨日もあげたでしょ、早くでないとあげないよ、というと、じゃあいいと、その辺りの500円をさらにとり、スイカに入れるとかいうので、頭にきて、バイトでもしろ、と怒り、口論をしました。結局、一限には絶対に遅れたのだろうな、もう、薄氷の氷に更にひびが入って、今日にでも割れるのでは、というゾンビがすぐそこに。。いたのでした。

この期におよんで、遅刻をするムスコの行動をもったいないともおもうし、どうせいくなら、なんで、あと10分、20分早くでられないかな(怒)お小遣いをあげるワタシもどうなんだ(怒)、20分早かったらあげるとか、ルール言うべきか(怒)とか、マイナスオーラ全開で、駅に向かいました。

冴えない気持ちのまま、オフィスから現場に向かい、ああ、今日にも欠課アウトですの連絡がくるのだろうか、と暗ーい気持ちと戦いつつ、いやいや、ワタシは学んだはずだ、もう、手放して自分に集中しようじゃないかと、諦めたはずじゃないのか、昨日はよい感じだったじゃないか、まずは落ち着け、という気持ちを小出しにしてみたり。ラインの相談室に書きこんでみたり。ザワザワはなかなかおさまりません。。

今にも、学校からのメールが届くことにおびえつつ、全体メールが2通。個人宛てではないよかった、で、いちいちビクビク。一喜一憂おばさんの再来です。ああ、太っ腹の肝っ玉の象のような人間像はどこへやら。。

すると、夜、母から電話がありました。朝、あまりの気落ちから、母にも愚痴を電話してしまっていたため、ドキッとして、いいこと?悪いこと?というと、「いいことっ、あのね、ムスコちゃんが、おばあちゃんの柿をとるのを、今日、やると電話があって、さっき、山ほどとってくれたんで、びっくりしたのだ」という報告でした。前にお小遣いをあげる代わりに、うちの柿をとるバイトをするんだよと条件づけしたそうなのですが、日曜に反故にしていたのでした。それを、今日、部活後に、映画をみるお金もなかったからか、ワタシのバイトしろ、話で思い出したかなんだか、急にやったのよ~という嬉しい報告!やればできるじゃないか、ムスコよ。

夜、モノレールに揺られながら、考えました。最近のワタシは息子が行かないかもしれないという呪縛にとらわれず、もしかしら、よ、万が一だけど、さ、進学できるのかもしれないのじゃないか?、ワタシは私で手放しを手に入れつつあり、だいぶ、大人になったんじゃないか?、などと、調子にのっていたものの、ああやっぱりことしも進級は無理なのか、どんな顔でムスコに接すればいいのだ、今日は間に合ったのとか聞くか?おばあちゃんのお手伝いしてえらかったね、と言った後にきくか、どうすりゃいいのだ、、、という考えがぐるぐるめぐり、思いついた言葉が、

目くじらのたった顔を、今しているのだろうな、ワタシ。

目くじら、なんでクジラなの?、とガクガクした、ワタシの目や顔かたちを想いうかべながら、調べました。

https://www.bing.com/search?qより

ということで、全く、クジラには関係ありません。しかし、ワタシの目と顔かたちは、がくがくクジラが飛んでいるに違いない。。どうしたら、抜けられる、この、がくがくクジラから。。

まずは、褒めよう。そして、今日は間に合ったの?と聞くか、聞いてもどうせ、ウルサイといわれるだけだな。ならいいや。もう、距離をおきましょ、諦めましょ、ワタシ。明日は早くでて、ムスコの遅刻にソワソワするのはやめましょう。ワタシの身がもたないでしょう。ワタシよ。なんとかがんばれや。

家に帰りました。ムスコはシャワーに入ってました。そのうち、娘がかえってきたので、今日、ムスコちゃんえらかったんだよ、柿とったんだってさ、ということで、ムスコにも、おばあちゃん喜んでいたよ、と言いました。

テレビをつけると、今は亡き瀬戸内寂聴さんが、世阿弥の佐渡に流刑になったことを、NHKの好奇心ワクワク、とかいう昔の再放送が。ワタシは、瀬戸内寂聴さんの著作だったか、世阿弥の本をよんで、世阿弥に興味をおぼえ、佐渡に行った際も、能楽堂が結構あったのを知って、とても、感銘をうけました。体に芸がある、人へのあこがれと、ボーイズラブへのミステリアスな好奇心と、色々まざってますが、とにかく、世阿弥が佐渡島では新作を書かなかったこと、けれど、唯一残っている手紙を、生でみている寂聴さんや、それを読める人々へ、うらやましいなぁという想いがわきました。時空を超えて交信できるということが。寂聴さんは、短い手紙のなかから、さすがの解説をしていました。妻を置いて佐渡に来ていることから、並々ならぬ、もう戻らないだろうという決心があったこと、にも関わらず、戻った折には何々しましょう、というはかない想いを書いていることを語ってました。

時世の歌での解説で、配処のなかから月をみる、という言葉をしりました。同じように無実の罪で、訳わからないまま、流罪で島にたどりついた、先人達の想いとプライドに自分を重ね合わせたというような内容でした。権力に高められ、権力に貶められるということを語ってました。それでも600年という時をへて、芸能というものは残っているのだから、なんという力でしょうか。

ワタシも、月を眺めます。月を見ると、ワタシは父を想い出します。丸い顔でどっか、がんばりなさいよ、だいじょうぶだよ、ワタシちゃん、と言われているような、勝手な想いを、権力とは無関係の配処の身?で、考えます。

街並みや、道具はかわったけれども、月や空は変わらない。

そして、ムスコで目くじらを立てる私は、なにか変わっているのだろうか、歴史的にみればかわらないけれども、これをこうして書けている、かかさせてもらってLaunchできている、ということで、小さな変化ができているのではないか、と、勝手な思い込みの配処(廃処?)の頭で考えました。

クジラの角は少しとれたでしょうか。隣でムスコは、携帯を口をあけてみています。明日はどうなることやら、しかし、それは、彼の人生。ワタシは私なりの時間があって、限られている。そうです、寝るのです。

角ばったクジラに襲われながらも、瀬戸内寂聴さんやら、囲碁アプリやら、現場の人々、母柿のパワーを借りて、そして、こちらで書かせていただき、今日もスキをしていただいた方のパワーによって、今日も生きてめでたしに、うっすらたどり着きました。

クジラよ、目くじらだったワタシよ、なんども蘇るだろうが、KEEP CALM、KEEP CARRY ON!でスイッチオフとしましょうか。

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