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映画『洗骨』を観て。大切な人の最期の受け入れ方
映画『洗骨』を観た。私は沖縄と東京の半々で生活をしているのだが、この映画は沖縄で観たいと思っていた。それは、この『洗骨』の舞台が粟国島(あぐにじま)という沖縄の離島だから。同じ空気と湿度を感じながら、映画を観たかった。
沖縄には、私たちが知らない文化風習が未だ深く残っている。その場に住む人たちにとっては「当たり前」のことであったとしても、私たちにとっては「驚くべきこと」だったりする。私は、その衝撃の波に触れることがとても好きだ。
粟国島の「洗骨」の文化も、そんな驚かされる文化のひとつ。
粟国島では、死者を火葬しないのだという。
棺に入れ、風葬し、4年ほどして肉がなく骨だけになった状態で取り出す。そして、家族の手で「骨を洗う」のだ。
実のところ、私は人の死を扱う映画はあまり好きではない。有無を言わさず、「泣け」と言われているようで。
でも、この映画は違った。「死」を一元的な感情で扱っていないように感じたのだ。古来、人は死をどのように受け入れてきたのか。島に伝わる風習の中から、知ることができるように思った。
遺された者たちの多くが抱く感情とはどんなものだろうか?
言いようのない喪失感。
そして、その後には「もっと○○してあげればよかった」という悔いが到来する。たとえ死者が大満足で亡くなったとしても、遺された者は「もっと優しくできたんじゃないか」「もっと話を聞いてあげられたんじゃないか」「もっと旅行に連れて行ってあげられたんじゃないか」「もっと美味しいものを食べさせてあげられたんじゃないか」…と、自分を責める。
「洗骨」は、そうした遺された者の思いを形にする儀式なのだと思った。
最期の時に、丁寧に、丁寧に、故人に話しかけながら、骨を洗ってあげる。骨に付く泥などとともに、自分たちの心にこびり付いた悔いをも洗い流していく。それが「洗骨」なのだろう。
死を受け入れ、死者への最後の恩返しをする。
死後4年経って、故人の骨を洗うのは、遺された者の心に積もった自責の念を洗い流す儀式でもある。
「死とは何か」「死はどうやって人に受け入れられていくのか」を、この風習の中で知っていく。
そして、「洗骨」を通して、死を身近にも感じる。
「死を知る」ということは、「生を知る」ということでもある。
私たちの隣にある「死」を感じることで、人は「現在」を生きようと改めて覚悟ができる。「自分の生」をまっとうしなければ、そんな思考に導かれる。
先ほど、故人の骨を洗うのは、遺された者の心に積もった自責の念を洗い流す儀式だ、と書いた。
しかし、それだけではない。「洗骨」に込められているもうひとつの意味。それは、故人が自分の亡骸を通して、生きている者へ「今を、思いきり生きなさい」と最期のメッセージを送っているということだ。
『洗骨』、心に深く残る映画だった。次は、粟国島へ渡り、死後の世界を身近に感じてみようと思う。
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