『変わらない時間』を知る大切さ。
先日、久しぶりに飲み友との時間を楽しんだ。
飲み友は72歳。僕より三十ほど年の離れた飲み友だ。
『じいじ』とか『オヤッサン』と好き勝手呼んでいるが、親子ほど歳の離れた僕を可愛がってくれる、ありがたい存在。
そんなオヤッサンから、『一日会で飲みに行くから、一緒に来ないか?』と誘われた。
『一日会』はオヤッサンの祖父の代から続く、地元の小売業や卸売業が毎月集まる会。70年くらい続いている会。
時代も変わり、世代も変わった事もあり、今では地元で商売を営む幼馴染の数人で飲む感じとなっていた。
オヤッサンは、よく一日会の帰りに事務所に顔を出してくれていた。
『今日もいつもと何ら変わらない。
70や80のジジババばかりだから、大した話は病気の事くらい。酒もツマミもいつもどおり。いつもどうりの会話だったわ〜。』
とほろ酔い顔でボヤきながら、手土産を置いて帰っていく。それがとてもお茶目だ。
その会に、欠席者が急出たから来ないかと誘われたのだ。
『いく!』
返事は即答だった。
とはいえ一日会のメンバーは、地元では有名な屋号や会社の方ばかり。長年、会社をやってきているから、失礼がないようにしなきゃと最初は変に緊張してしまった。
1人で畏まっていた僕に、オヤッサンから一日会のルールを教えてくれた。
『好きなものを食べて、好きなものを飲む。お酌はしない。喋りたいことを好きな時に喋る。それだけ。』
その言葉を聞いて、これまでの自分はどれだけ気を遣って飲んでいたかを気付かされた。
ただ集まって飲むということに、意義や意味を持とうとし過ぎていたのかもしれない。
挨拶も最低限に、『いつもの飲み会』のひとときを過ごす。
ジジたちの病気や老いの話に笑い、仕事のぼやきに笑い。君もいずれそうなるんだと笑われる。
僕にとっては、ただただ穏やかな時間。
年齢や世代も気にしない。「今」という時間を共有し合って、穏やかに互いの存在や現在地を確認する時間。
時代や人が移りかわっても、70年も続いてるのは、きっとシンプルに「互いの存在を確認する」という目的で集っている。
でもそこには、オヤッサンたちがそれぞれ築き上げてきた歴史があるから、深みを感じれたのだろう。
歩みを止めないために、月の始めに「いつもの席で、いつもの料理とお酒、いつもの時間を共有する」。
とてもよき時間だった。
帰り際、
「いつもの感じたが、来月も来るか?」
と聞かれた。無論、返事は
「いく!」
仲間に入れてもらえた気がした。
めまぐるしく変化する時代だからこそ、「変わらない時間」があることの大切さも感じた夜だった。
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