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残り火(BFC一次予選通過作品)

 もう乾いていると思っていた片手鍋の底に一滴だけ水が残っていた。鍋を揺らすと水滴は引っかき傷の上を流れ、薄くなった。
 物音がした。振り向くと、昼寝をしていた直也が、腹をかきながら立ち上がっていた。白いTシャツにはオレンジ色の染みがついている。昨日の夜の、体臭とバターチキンカレーの混ざったニオイを思い出す。
「オレも行く」
「買いたいものがあるの」
「別に、なんとなく」
 直也はTシャツを脱ぐと、部屋の隅にある洗濯籠に投げ入れた。白い肌の中でみぞおちの辺りに生えた毛が目立っている。ズボンの位置が高いせいで、へその横にある痣は半分だけ見えている。
「ジロジロ見るなよ」と言って笑うと、直也はズボンを脱いだ。僕は鍋を棚に戻した。直也は僕の横を通り、脱いだズボンを洗濯籠に入れた。トランクスの前ボタンが開いていて、隙間から亀頭が見える。
 直也が僕に近づいてきた。息は生臭く、少しだけ甘さがあった。唇はほとんど乾いていた。直也の手の動きに合わせて、僕は直也の痣を撫で、トランクスの中に手を入れようとした。急に、今してしまうのはもったいないような気がして、僕は手を止めた。体を離そうとすると、直也は僕の手を掴み、トランクスの中に入れ、ペニスを触らせた。自分のペニスにも血が集まるのを感じる。それでも僕は体を避けた。直也は僕のTシャツの中に頭を入れ、「圭一」と甘えるように言い、乳首に吸いついてきた。気持ちよくて声が出そうになるのを我慢しながら、心の底は冷めていた。
「パンパン」という音が外から聞こえてきた。拳銃の発砲か。僕が体をこわばらせたので、直也も動きを止め、Tシャツから顔を出した。音がまた聞こえ、続くようになったので、花火だと気づいた。発砲だと考えたことが恥ずかしくなった。
 直也はシャツを羽織ると窓を開け、狭いベランダに出た。僕も直也の後ろから外を見た。まだ暗くなりきっていない曇り空に花火が上がっていた。住宅街の上にオレンジ色の光が見えて、すぐに見えなくなった。近くにあるヤマダ電機の看板の方が明るい。庭に出てきた向かいの家のおばあさんはすぐに家へ戻ってしまった。赤、緑、白などの花火が上がるけれど形は単調で、飽きてきたところで終わってしまった。あっという間だった。
 花火が終わった後も、直也は薄暗い空を眺めていた。僕は空を見ながら、直也の後頭部のニオイを嗅いでいた。生暖かい風が心地よかった。もう少しで直也を後ろから抱きしめそうだったところで、直也は「九時までだっけ。そろそろ行かないと」と、部屋の中に戻ってきて、ジーンズを履いてしまった。
 僕はまだ余韻の中にいた。スマホで調べると、近くで小さな花火大会があったことがわかった。直也に教えると、興味が無さそうな反応をした。僕はあきらめ、出かける準備をした。
 外は数分前より暗くなっていた。街灯に虫がぶつかる音が聞こえる。通り過ぎる電車の「急行」の表示の赤が目立つ。
「何買うの」
「これから食べるものと、米と、朝食べるもの。そのくらい」
「米は、重いな」と直也が真剣に言ったので、僕は笑ってしまった。
 横断歩道の白線を踏まないように直也は歩く。「さっきの花火はショボかったな」
「たしかに」
 僕は人生で一番印象的だった花火について考えた。小学校二年生か三年生の時に、父親とスキー場で見た花火だ。ゲレンデが花火を照らすのがきれいだった。花火が終わった後でゲレンデを歩いていると、花火玉の欠片が落ちていた。拾うと指が煤で汚れ、火薬の臭いがした。ティッシュに包んで持ち帰り、机の引き出しにしまい、たまにニオイを嗅いだ。今でもニオイをはっきりと覚えているけれど。いつ欠片を捨てたのかは思い出せない。
 
 夕食後、毎週しているように、風呂場で直也が僕の頭を坊主にした。直也は昔から坊主頭が好きらしく、バリカンも使い慣れている。場所によってアタッチメントを付け替え、長さを調節して、きれいな坊主にしてくれる。バリカンを使うたびに掃除をして、油をさしているから、音は静かで髪に引っかかることもない。髪を刈り終わると、ローションとカミソリを手に取り、首筋の産毛を剃りはじめた。直也は作業に集中していて、「下を向いて」「右を向いて」という指示以外は何も言わない。僕も黙って直也に任せる。
 直也が僕の頭を洗いはじめた。短くなった髪を撫でていた手が、耳、首筋を通り、肩に触れた。僕は振り返り、直也と見つめ合った。さっき食べたキムチ鍋のニオイがする。軽く唇が触れた後で、人差し指に少し痛みを感じた。指を見ると、二ミリくらいの短い毛が刺さっていた。坊主にした後、体のどこかに短い毛が刺さるのはよくあることだ。僕は毛を抜こうとしたけれど、うまくいかない。直也が毛抜きを取りに行こうとしたけれど、僕はそれを止めた。僕は痛いくらいに勃起していた。「大丈夫。そのうち抜けるから」。僕は直也の尻を撫でた。直也が逃げてしまわないか心配だったけれど、受け入れてくれそうだ。背中を舐めると、直也は深く息を吐いた。人差し指の忘れようとすれば忘れられるくらいの痛みが心地いい。

英語を教えながら小説を書いています/第二回かめさま文学賞受賞/第5回私立古賀裕人文学賞🐸賞/第3回フルオブブックス文学賞エッセイ部門佳作