一つ星
僕たちがバスの最後列の右端に座ると、バスはゆっくり動きはじめた。
前の席に座った男の子はコロコロコミックを読んでいる。男の子が「阪神タイガースって何」と父親に聞いた。父親は「阪神タイガースは、野球チームだよ」と答えた。
窓際の席にいる直也は外を見つめ、話しかけてほしくないという雰囲気を出している。目の細め方がわざとらしい。自分の顔の良さを自覚しているんだなといういやらしいさがある。実際、整った顔をしているんだけど。
バスを降りると、市松模様の布マスクをして、「love&chaos」と刺繡されたネイビーのキャップを被ったおじさんが駅の出口から歩いてきた。駅前には旗がたくさん立ち、政治家が演説している。たくさんの人が通り過ぎ、立ち止まっているのは数人しかいない。直也は水色のTシャツを着た男性が配る「市政レポート」を受け取った。「ありがとうございます」と男性が大きな声を出した。
地下街につながる長い下りエスカレーターで、直也は市政レポートを読みはじめた。
「こいつ、あんなにくだらない演説してるのに、東大卒だって。それで、アメリカの大学に留学してる。議会で提言しただけで金がもらえるなんて、いい仕事だよな」
今日は朝から僕が話しかけても無視してきたのに、急に勢いよく話しはじめて、いったい何なんだろう。僕が直也の話を適当に流していると、エスカレーターを降りた瞬間に直也が僕の顎を掴んだ。
キスをされた。
近くに近くにいた女子高生二人が「えっ」と言った後、楽しそうに顔を見合わせた。
今日は晴れているのに、地下街は湿った臭いがした。僕たちは高級スーパーに入った。入り口横にあるパン屋では食パンが一斤で千円もした。ふつうの豆腐の半分の大きさの容器に入った無農薬豆腐。千二百円の牛タンカレー。買う気のない商品を眺めながら、僕たちは一言も話さなかった。
直也が本屋に入ったから、僕もついていった。僕がミステリーの文庫本を立ち読みしていると、直也が「オレが本を出したら、圭一も☆5のレヴューを書けよ」と言った。直也が指さす先には「アマゾンで高評価!絶対感動する恋愛小説」というポップがあった。
直也は小説家志望で、いろいろな新人賞に応募していた。実体験に基づいた完成度の高い小説を書いて、最終候補に残ったりしている。
「オレと圭一と、何人かで☆5の評価をつければ、こうやって注目されて売れるかもな」
「オレは☆1をつけるよ」と僕はとっさに言った。「まずは、一冊でも本を出せよ」
直也はこっちを見てから、舌打ちをした。それから、少し悲しそうな顔をした。
どうして「☆1をつける」なんて言ってしまったんだろう。直也が作家として成功してくれたらうれしいけれど、直也の書いた小説を他の人に読んでほしくないという気持ちがあった。直接は僕のことを書いていなかったとしても、きっと作品には僕たちの経験がどこか深いところで影響を与えていて、それがみんなに知られるのは嫌な気がした。直也の小説の良さは、僕だけが知っていればいい。もちろんそんなのは、僕のわがままだ。
帰りのバスをバスを待つ間、やわらかいものが頬に当たった。さっきの直也のことを思い出して、とっさに手を払った。足元を見ると、トンボが落ちていた。コンクリートの上で、ねじれた羽が風に揺れている。トンボを眺めていると、直也が「弔ってあげようぜ」と言った。直也はトンボを手の平に乗せると、列から離れ、花壇に向かった。僕も仕方なく列から離れた。僕たちの後ろに並んでいた人たちが、列を詰めた。
花壇の植物は半分枯れている。直也は土の上にトンボをそっと置き、見つめた。僕も自分が殺したトンボを見た。直也が目を閉じたから、僕もそうした。風に少し涼しさを感じた。
「行こうか」と直也が言った。僕たちは列の一番後ろに並んだ。バスが来た。みんなが一斉にバスの方を見た。僕はその瞬間に、直也の頬にキスをした。
・この作品は第6回私立古賀裕人文学祭に参加しています。
英語を教えながら小説を書いています/第二回かめさま文学賞受賞/第5回私立古賀裕人文学賞🐸賞/第3回フルオブブックス文学賞エッセイ部門佳作