犬が盗まれたそうだ。
それで心を痛める人がいるらしい。
「犬の気持ちを考えるべきだ」と。

なるほど犬の気持ちは考えた方がよかろう。

しかし犬としては、全然関係ないあんたらに同情されても腹は膨れない、とでも思うんではなかろうか。

もっとも、私は犬ではないので、彼の気持ちは分からない。

一体人間のくせに、増してや飼い主でもないのに、どうして他所の犬の気持ちが分かるかのような言い方をするのだろうか知らん。

翻って、人の気持ちということについてほんの少し考えてみたい。
いったい「人の気持ち」というものは、解るものだろうか。
自分としては、およそ「推し量る」くらいしかできぬものと感じる。生きる世界も価値観も環境も異なる他者の気持ちがどうして解ろうか、と。

こうしてみると、推し量ることができるというのも不思議なものだ。つまり、Aという事に直面すれば、Bという気持ちになる人が必ず何人か居て、そのB同士では気持ちを量りあえるという事だ。
全く異なる背景を持つ人間同士でさえ、このような事が起こるのだから、きっと肉体的な、物理的な、化学反応というものを、「気持ち」と認識しているのだろう。
恋というものを科学する人がいるのも、きっとこんな具合で物質的側面を見るのだろう。

それはそれとして、虫のように、何かフェロモンのようなものが分泌されて、気持ちが「解る」ようになりはしないものか。
相手の気持ちがほんとうに隅から解ったらば、喧嘩やら戦争やら詐欺やらは起きまい、、、と書きかけたが、相手の気持ちが分かろうが分かるまいが、許せないことは許せない時もある。
人のなんと悩ましいことか。

いっそ犬になりたい。だれか盗んでくれまいか。

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