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「続ける力」と同じくらい、「やめる力」も大切だと思う

「一度始めたことは最後までやり抜くべき」、「すぐにやめると、辞め癖がついて良くない」。自分が小さい頃から、周りの大人はそんなことを言っていた。

確かに、一定の成果を残すためには、継続することが大切。それはその通りだと思う。しかし、実際に上記のことを実践しようと思うと、気が付く事がある。圧倒的に時間が足りなくなる。

それはそのはず。人生の時間は有限である。そして「始めることはあっても、やめることはない」。それでは、キャパシティオーバーになるのは当然のこと。

例えば、「プロ野球選手になるためには、野球を続ける必要がある」。それはそう。しかし、「野球を続けたら、プロ野球選手になれる」のか? その限りではない。

確率的には、なれない人の方が圧倒的に多い。人生全体を充実させるためには、どこかのタイミングで見切りを付ける必要もあるのではないか。

ではどのタイミングで見切りを付けるのか。

例えば、高校で野球部に入っていたとする。どうしてもそこで成果が出ない。その場合にどうするか。

世間的には、部活を最後までやったら「やり抜いた」と評価される。部活を途中で辞めたら、「逃げた」、「投げ出した」などと悪い印象を持たれる。

しかし、本当にその評価は妥当なのだろうか。繰り返しだが、人生の時間は有限。何かをやるということは、何かをやらないということ。あるタイムウィンドウの中では、トレードオフで考える必要がある。

「やめる」と言っても、その中にもスペクトラムがあると思う。「本気でプロを目指すことはやめたけれど、趣味として野球は続けます」、「野球を本格的にやることはやめたけれど、スポーツは続けています」、あるいは「野球はやめたけど、挑戦することは続けています。次はビジネスに挑戦します」など。

何をもって「やめる」と言うのか。何をもって「続ける」と言うのか。その線引きは案外曖昧。

一方で世間からの評価は極めて単純。上記の例で言えば「部活を最後までやりました」のようなものをもって、「やり抜いた」、「継続した」と言われる。

これは、「続ける」「やめる」の話に限らないが、世間からの評価など、そんなもの。あまりアテにしてはならない。

そもそもなぜ「続けることが美徳」という価値観が根付いているのか。これは日本に限ったことではないと思う。程度の差こそあれど、英語圏でも同様だと思う。

「GRIT(やり抜く力)」や、「Perseverance(我慢強さ)」、「Persistence(根気良さ)」といった言葉を用いて賞賛される。

一方で、やめることに対しては、「Quitter(簡単に諦める人、腰抜け、意気地なし、臆病者など)」などとネガティブに評価される。

日本ほどではないのかもしれないが、やはり海外の多くの国でも、状況は対して変わらないと考えられる。

繰り返しだが、続けることは確かに重要である。一定のレベルに到達するためには、年単位の努力が必要になるのは言うまでもない。

他方、人生の時間は有限である。続けることの「見極め」にも労力を割くことが合理的なはず。

では、なぜ「続けること」ばかりに重きが置かれるのか。それは、「社会の流動性を下げて、既得権益者の地位を安定させるため」なのではないかと疑っている。

1つのことを「続ける」ということは、個々人の挑戦の数が減るということだと思う。そうすることで、社会は安定する。現在、特権的な地位にいる人は、自分の立場が脅かされずに済む。だから都合が良い。

大人しく今いる地位に安住しておいてもらいたい。それが本音なのではないか。

本来、人は自由なはず。続けるも自由。やめるも自由。他人が決めた価値観をサブスクライブする必要はない。自分の都合で人生のリソースの分配を行うべきだと思う。


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