24年間のサッカー人生で学んだこと
きっかけは三浦カズ選手
サッカーを始めたのは4歳。きっかけはテレビに映る三浦知良選手だった。華麗にシザースをする姿がとてもカッコよく、スポーツ名もわからないまま「お母さんこれがしたい」と言ったらしい。実はよく覚えていない。
幼い頃から食いしん坊だったらしく、地元のスポーツクラブに入ってサッカーを楽しむ以上に、毎回コーチからもらう飴ちゃんを楽しみにしていたところが私っぽくて笑える。
母親の存在
母親は、「小学校のサッカーチームは4年生から」という決まりを覆し、1年生から入部させてくれた。練習後は母親の車にランドセルを積み、2キロの距離をランニンングで帰っていたのがとても懐かしい。
突然、両親の離婚により生活環境が変わった。
私の家は、姉・姉・私・妹の4兄弟(親は一緒)。
母親1人で4兄弟を育てながらサッカーのサポートをしてくれた。だから自分はサッカーを頑張るしかないというモチベーションが常にあった。母親には感謝の気持ちでいっぱいだ。
成長期と怪我
小さい頃から怪我が多く、通院するすることが多かった。1990年代前半はストレッチが普及していなかったので、足首の捻挫にはじまり、中学生で腰椎椎間板ヘルニアや腰痛分離症を経験した。
小学生の頃から、ストレッチや自己管理する知識があればよかったと後悔している。理由は、大人になってからもっと良い成績を出せたのではないかと思うからだ。
このような自己管理能力を身に付けるには、情報収集ではなく情報の整理整頓と選択が重要。この作業は、親と二人三脚でトレイ&エラーを繰り返しながら自分にとって最適なことを実践し、継続することが大事だと感じている。
偏ったトレーニングが生んだ副作用
中学生になり、中距離と長距離が苦手になった。今振り返って分析すると、「遅筋と速筋」の先天性な割合の問題もあるが、身体の発達に合わせたトレーニングができていなかった。
心肺機能を上げるトレーニングばかりだったので、私の場合は乳酸を除去する能力が極めて低かったと感じている。
鹿児島城西と鹿児島実業の選択
怪我をしながらも指宿市のトレセンに入っていた私は、運よく鹿児島城西高校と鹿児島実業高校から特待生として入部勧誘された。
当時の鹿児島県は、絶対王者の鹿児島実業を新進気鋭の鹿児島情勢が追いかける勢力図だった。
私は、サッカースクールに通っていた関係で鹿児島城西から勧誘され即決したのだが、遅れるかたちで鹿児島実業から勧誘があったときは正直混乱した。
なにせ、私が入学する前の鹿児島実業にはあの松井大輔選手がいたのだ。上手なのは誰もが分かることだが、全員坊主の中、1人だけ長髪だったので色んな意味で異彩を放っていた。
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