
薄れゆく自己を求めて、秋田へゆく。
半年に一回は、実家へ帰るようにしている。
東京にいると良くも悪くも"自己"が薄れ、それが楽な部分でもある反面、創作をする一地方人にとっては大切な事を忘れていく一因となってゆく。
田舎にいると、自分の意思に関わらず周りから性急に"自己"を押し付けられる。
●●の家の孫
●●の同級生
昔は●●で働いてた
●●の学校だった
至る所に知り合いがいる。知り合いしかいない。常に何処かに目線があり、気を抜ける瞬間というのは自室に一人でいる時しかない。
だが、だがその押し付けられるような"自己"を東京にいると忘れてしまう。それを忘れると、私は私の創作が出来なくなる。
別の話をしよう。
時間の流れも異なると、本気で思ってる。
所謂、数学的な時間では無く体感的な時間だ。
どうも時の流れが遅い。
主観的に述べるならば、東京の10倍は遅い。
兎に角、纏わりつく空気すら鈍重で緩い。
畳の上に座り、ただ耳を澄ましてると聴こえてくる。
コンバインの音が。
隣の爺さんが庭の剪定をしている音が。
役場の放送が。
どこへ向かう軽トラックの音が。
建付けの悪い障子の戸の揺れる音が。
そんな音を聴く度に、古い記憶が一つ一つ顔を出してくる。
筆が止まらなくなる。実家に帰ると。
詩が溢れて溢れてしょうがなくなる。
新しい音源に入ってる曲だと
『友川カズキを聴きにゆく』
『夜と和解』
は昨年の夏に帰った際に実家の部屋で書いたモノだ。
秋田に帰る度に、その後に代表的ナンバーになる曲が自然と出来る。
『ハタハタ男のブルース』もそうだ。
私にとって秋田への帰省は"曲を創る為"が理由の九割。
本当だ。地方人にしか分からないだろう。
因みに"創作の為に帰る"は、片山さゆ里氏も同意していた。
前回の帰省から、そろそろ半年経つ。
実感としての秋田が消えかけているのを感じる。
七月の独演会を終えた後だろうか、次に帰るのは。
一体、今回はどんな曲が生まれるだろう。
いつもそんな事を考えながら、私はいつもゆっくり北へ向かって帰るのだ。
徐々に徐々に東北の深部に変化してゆく、窓の景色を眺めながら。
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写真・或る夜に鞄に描き殴った絵。