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ポール・セザンヌ紀行

 どの美術館に入っても、絵の前で必ず釘づけになってしまう画家がいる。その絵は、他の絵を観ながら歩いている時からすでに、とてつもない引力で私を引き寄せてくる。そして絵の前に立ち、作者を見る。すると決まって、「Paul Cezanne」と書いてある。
 絵を見始めた頃は、セザンヌのタッチも色も構図も知らない。それでも有無を言わせぬ力で、どんな遠くからでも私を吸引し、私を釘づけにする。この画家の、魔力とも言えるこの力は何だろう。何が私をそうさせるのか。
 例えばモネの絵には、一瞬の光景のきらめきが描かれる。ゴッホの絵には、ゴッホという人間が迸っている。セザンヌの絵には何があるのだろう。風景であれ静物であれ人物であれ、セザンヌが絵に求めたものは何だろう。
 よく言われることは、彼の多視点による幾何学的構成は、後のピカソやブラックなどのキュビスムに繋がった。あるいは、全体の構成のために形態を抽象化させたことで、後の現代抽象画を生んだ、といった類のものである。
 後の画家はセザンヌを手本にしたが、セザンヌ自身はどうか。セザンヌが形で示した近代絵画は、ひたむきに形態を見続けてきた彼の感覚が、画面の要請に従ってなしたもので、絵画を解体した後世の画家とは本質的に違うということを、私は思わずにはいられない。
 オルセー美術館の五階に、「りんごとオレンジ」がある。12年春の東京の国立新美術館での「セザンヌーパリとプロヴァンス」展に本場オルセーと、私は何度かこの作品を観ている。彼の代表作の一つであり、どんな賛辞を持ってきても足りないくらいの傑作である。
 それぞれに微妙に色合いの違うりんごとオレンジが、様々な角度で置かれている。器やテーブルクロスは物理的にツッコミどころが多々あって、よく見ると奇妙な絵ではある。しかしそれが絶妙な調和をなして、一枚の絵としてこれ以上ないものに仕立て上げられている。
「りんご一つでパリを驚かせてみせる」と息巻いていたセザンヌだったが、後にパリどころか世界中を驚嘆させ、絵画の在り方を一変させた。この作品は、近代絵画の到達点を示していると言えるだろう。
 といっても、セザンヌの世評が追いついたのはその晩年になってからのことで、それまでの画家に対する評価は、嘲笑か無視がほとんどだった。印象派の画家たちも世評が追いつくのに時間がかかったが、セザンヌの場合はそれに輪をかけて大変だった。サロンでは落選の常連だった。お情けの一度のサロンと二度の印象派展を除けば、この画家の絵に接するのは一部の画廊に限られた。
 世に迎合することなく己の道を貫くやり方は、画面からも生き方からも漲っていた。唯一の弱点は父親で、銀行家の父の存在なくして、彼の画業は成り立たなかった。父の前では身を低くしていた。しかしその父も亡くなり遺産を引き継ぐと、パリに出ている期間以外は、故郷エクスにこもって自らの絵画の探求に全精力を注いだ。
 そして世間もこの画家のことを忘れかけていた1895年、パリのヴォラール画廊でセザンヌ初の個展が開催される。それを契機に、画家の評価は高まって行く。セザンヌ56歳。孤高の画家にようやく時代が追いついたのである。


 美術館に足を運ぶようになった私が意識してセザンヌの作品を捉えるようになったのは、アーティゾン(当時ブリヂストン)美術館や横浜美術館の所蔵作品からだと思う。中でもアーティゾン美術館は人物、風景、静物それぞれに佳作が揃っている。
「鉢と牛乳入れ」を初めて観た時に、それが特に美しいともよく描けているとも思わないのに、なぜか絵の前で釘づけになってしまった。とにかく存在感が凄い。現実の形としては明らかにおかしいが、それでも絵としては成立している。それは、奇妙にして絶妙。不自然の自然。不安定の安定。見終わった後も頭に遺っていて、何度もその絵の前に私は戻った。
 セザンヌの静物画といえば何といっても「りんごとオレンジ」だが、もう一つ上げておきたいのは、「カーテンのある静物」である。12年初夏に国立新美術館で開催されたエルミタージュ美術館展で、私はこの絵に出会った。果物が様々な角度から描かれ、器やテーブルクロスが不自然といった、この画家の静物画に特有の点はこの絵にも認められる。
 ただ私がこの絵に惹かれたのはその点ではない。何よりもオレンジの色と形である。背景が暗色なのもあってか、このオレンジは浮き立っている。葉っぱの柄のカーテンの緑が画面中央で斜めの線を描き、手前のテーブルクロスは不規則な曲線を描いて垂れ下がる。それらすべては、オレンジの色と形に収斂される。このオレンジはいつまでも観ていられる。静物の色と形にここまで心奪われる絵を私は他に知らない。
 セザンヌの絵には人物が描かれてないと言われることがある。人物の内面や様子が伝わらないという不満も聞こえるが、人物そのものはセザンヌも多く描いている。私が最初に目を奪われたそれは、11年夏の国立新美術館でのワシントンナショナルギャラリー展にあった「赤いチョッキの少年」ではなかったかと思う。左腕がだらりと伸びたその絵は、そこだけ見ると奇妙だが、一枚の絵としては絶妙な構図となっている。
 腕が不自然に長いといえばオルセー美術館にある「カード遊びをする人々」もそうで、あえてそうすることで画面の構図が完璧なものとなり、人物の存在感も際立ってくる。
 ポーズの崩れるモデルに対し「りんごは動かない」と言い放ったセザンヌにとっては、人物も静物も同じようなものだったのかも知れない。静物は一個の人格がそこにあるかのように描き、人物は不変の静物を描くかのようにして描いた。
 オルセー美術館にある「首吊りの家」は、1874年の第一回印象派展に出展された。印象派の描法を吸収した頃のセザンヌの作品で、仲間のピサロとセーヌ河畔のポントワーズやオーヴェールなどに出掛けて、光のなかで描いた。画面は明るく印象派の筆触もみられる一方で、早くもこの画家独特の構図が発露されている。
 左右の家の屋根の形も大きさも、間に見える地平線も、前景の斜めに伸びる道も、すべてが収まるべきところに収まり、堅固な構成に仕上がっている。自然を見た自らの感覚を、画面の要請に従って描いて行く。一瞬の光景を描くのが印象派なら、セザンヌは一瞬の光景から永遠の一枚に仕立て上げて行った。
 セザンヌの風景画といえば何と言ってもサント・ヴィクトワール山で、エクスアンプロヴァンス郊外にあるこのモチーフを、画家は生涯に亘って追求した。私が最初にそれを見たのはアーティゾン美術館と横浜美術館にあるそれぞれのサント・ヴィクトワール山である。一方は緑の粗い筆触のなかに山は大きく描かれ、もう一方は遠景の山に向かって線と色を幾何学的に配して画面の拡がりを表現している。
 南仏の風景を舞台としたセザンヌの絵でもう一つあげられるのは、レスタックの海である。高台から手前にはレスタックの町、間にマルセイユ湾、向こうにマルセイユの町と山が遠望される。海の青と手前の町の境界線は斜めに縁取られ、それぞれがリズミカルに配される。
 これらの絵を見続けているうちに、私はいつしか、本場フランスの美術館で観たいと思うと同時に、実際にこのセザンヌのモチーフに迫りたいと思うようになって行った。フランスへ行ったら必ずエクスに行って、セザンヌの山に迫ってやろうと。

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