第一テモテ1章15節ー17節
「罪びとのかしら」
第一テモテ1章15節―17節
パウロは当時、教会で語りあわれていた言葉を真実な言葉として紹介するのです。罪びとを救うためにこの世にこられた主イエス。パウロは説教者としてこの言葉を何度も語り聞かせる側だったはずです。しかし自分には関係のない話として冷静に語るわけではありません。むしろ自分こそその罪ひとの頭だ。その最たる者だという自覚が終生彼をとらえて離さなかったことがわかります。過去形ではなく現在形で綴られているのですから。
信仰は成長するほどかえって罪の自覚が生じる面があります。自分も悪いがあの人よりはましだと比較している限りは、いまだ成長途上なのでしょう。むしろ、神の救いの恵みに圧倒されるほど、ほかの人の罪などどうでもよくなります。なぜ神はこんな罪深い自分を赦し、用いて下さるのかと驚かされ、感謝の念に圧倒されていくことでしょう。神の愛に精一杯お答えしていこうという姿勢が生まれていくことでしょう。
そういうパウロは自分が見本なのだと自覚しているのです。神がいかにあわれみ深い方であるか。どれほどの寛容を尽くされるお方か。パウロの救いと救われた後の生活を見たら一目瞭然だからです。それはこれからイエスキリストを信じたいと思っている方への励ましになると言うのです。立派だったから救われるのではない。どんな罪びとであろうが神は救うことができる何よりの前例としていくらでも証言できることが彼にはあるからです。
私たちも見本なのです。とは言え、何も非の打ちどころのない模範的な信仰者たれと勧められているのではありません。誇れるものなど持たなくても構いません。神が自分にいかに憐み深く、忍耐強いお方であられたかについて、語れるべき証言を山ほど持っていると言えるなら、誰でも見本なのです。それを聞く者が励まされるのです。ここに慰めを得た者が、神は罪深い自分をも救って下さるに違いないと確信するに至るのです。
罪人のかしらであるとは、言うなれば主イエスの救いなしには生きられない者という告白です。その恵みとあわれみを思う時、神のすばらしさを賛美するほかないのです。私たちも賛美へと招かれています。苦境があるかもしれない。目の前の重苦しい現実に打ちのめされているかもしれない。しかしテモテにエペソ教会を託したのは神なのです。憐れみ豊かに行動される神なのです。
それならたとえ教会が思わしくないことに直面しようと必要以上に心配することはないのです。ありえないほどのあわれみを注いだ主が教会の主だからです。この方が私たちに託されたつとめを最後まで全うさせて下さるでしょう。あらゆる妨げから救い出し、福音に忠実であろうとする限り、いくらでも力をもって強めて下さることでしょう。それなら、心込めてこの方をひたすら賛美すればいいではありませんか。
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