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ヨハネの手紙第一5章11節ー12節

「永遠のいのち」音声はこちらからお聞きになれます。
ヨハネは神の証について伝えてきました。ここではさらに踏み込んで具体的に神が御子についての何を証言されているかを明らかにします。即ち、神が永遠のいのちを私たちに与えて下さったということなのです。誰もが人生の最後には死を迎えますが、人は死んだら終わりではないということです。永遠のいのちがあるということは、死からの復活が約束されているということなのです。

それは私たちのなんらかの努力や実績などによって獲得するようなものではありません。一定の成果をあげないと手に入らないとは言われていないのです。なぜならそれは神が与えて下さるものだからです。神は永遠のいのちを与えようと望んでおられるのです。すべての人が頂くことができるものなです。従って、私たちがなすべきことはありがとうございますと感謝して受け取るだけなのです。そしてこの救いを多くの人に分かち合うのです。

もっとも永遠のいのちだけを受け取るという単純な話ではありません。なぜなら永遠のいのちとは御子のうちにあるものだからです。実際、キリストは十字架にかかって死なれましたが、復活されて永遠のいのちがあることを証して下さいました。それなら、私たちはキリストを受け入れるという形でしか永遠のいのちをいただけないことがわかるのです。御子を受け入れることと永遠のいのちをいただくことは一つのことなのです。

御子と結ばれている者にはいのちがありと言われているのはそのことです。単なる物理的ないのちではなく、永遠のいのちのことです。御子に罪からの赦しと救いがあると告白することを通して永遠のいのちがやってくるのです。しかし、御子と結ばれているとは一体どういう状態を指すのでしょうか。少なくともそれは目に見えるような形で証明できることではないでしょう。なぜなら、それは信仰上のことであって霊的な現実だからです。

ただし、教会はこの霊的な見えない現実を見える形でも表現してきたことも確かなことです。それが洗礼と聖餐です。イエスキリストを信じることを公に会衆の前であらわす洗礼と、主からだと血を象徴し、十字架を記念する聖餐。この二つはサクラメントと呼ばれています。御子をうちに持つ者が、洗礼の恵みに預かるのですし、聖餐の恵みに預かって、主の十字架に感謝を捧げるのです。

信仰生活は決して順風満帆とは限りません。様々な困難や試練もあることでしょう。実際、ヨハネの教会も間違った教えにかき回され、教会分裂の痛みを負いました。しかし私たちは問題があればあるほど、永遠のいのちに預かっていることに確信をもち、神に感謝を捧げるものでありたいと願わされるのです。

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