見出し画像

マルコ3章1節ー6節

                                                  「主のわざを喜ぼう」
              マルコ3章1節―6節
 
正義感は厄介です。パリサイ派の者がなんとかイエス様を殺そうと相談し始める。彼らに言わせれば、それも正義感に駆られてです。マルコの2章から3章にかけては、パリサイ派とイエス様の一連の論争がまとめられています。案外、主とのやりとりも最初は純粋な質問だったのでしょう。ちょっとした疑問だったかもしれない。しかし、自分の律法理解が主に通らないとなると、それは相手への排除になり殺意にまで高まっていくのです。
 
これは私たちの中にもある傾向です。自分の宗教上の信念にこだわっているのです。よかれと思って自分なりの正義感を振りかざすのです。聖書まで引用して。それが神への熱心さだとばかりに。しかし、案外それが深いところで神を排除していることにならないとは言い切れない。熱心さゆえに、自分の思いとは違うものを受け入れることのできない狭さ。宗教的であるがゆえの、かたくなさ。誰もが問われないといけない重たい課題です。
 
しかも、主の殺害相談は、礼拝の日に起きているのです。礼拝に出た者が会堂を出てすぐの話なのです。いきさつは礼拝に片手のなえた人が出席していたことです。その手では、仕事にも差しさわりがあったでしょう。経済的に困窮していたことでしょう。病気になるのは特別に罪深いからだと信じられていた時代。この人は一体どういう思いで礼拝に出席していたのでしょうか。会堂の片隅で肩身の狭い思いでうずくまっていたことでしょう。
 
人々の目はこの男に注がれています。同情の目ではありません。イエスを訴えようと思ってとある。安息日に主が彼をいやすかどうか。罠なのです。危ない。イエスよ。誘いに乗ってはいけない。攻撃の口実を作るだけだ。あなたがいやしを行う方なのはわかっている。しかし、別に今日でなくてもいいではないか。善意ある人は内心、そう思っていたかもしれない。悪意のある人は、さあ、いやしてみろと挑発の目で見ていたかもしれない。
 
しかし、誰も、この男の人生の痛みになど気にはしていない。主はそれに怒りを覚えられるのです。罠だとわかってはいても行動を起こさずにはおれない。そもそも安息日とは旧約聖書の昔から神の解放の日です。ならば、苦しんでいる人を解き放ち、いのちを救うことが悪いことのはずがない。その確信に基づいて、片隅にいた男を真ん中に立たせ、手を元通りにおいやしになるのです。これこそ、安息日の本来の在り方なのですから。
 
今も礼拝で起きるはずです。社会の片隅で苦しんでいた者が解き放たれることが。差別で排除されていた者が、伸ばした手で希望をつかむことが。遠慮して生きてきた者が、皆の真ん中で立ち上がる主のわざが。問題は、私たちがそれを喜べるかです。己の理念にこだわっているうちに、いつの間にか心がかたくなってしまう。神のわざを喜べなくなる。理屈をこねまわし、難癖をつけ、神のわざが現れていても、認められなくなってしまう。
 
いのちの神は今も人を解き放つ善なるお方なのです。それだけではない。その証を通して、かたくなな私たちの心をも解き放とうとされる恵みに出会えるのです。今も生きて働く神を、排除しようとするあらゆる妨げを、主はお嘆きになられます。危険を顧みず、苦しむ者に寄り添い、受け入れる神。この方の圧倒的な現れの前で、誰もが、砕かれます。福音が立ち上がる以上、自分なりの正論も常識も、正義も、伝統も、道をゆずりなさい。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?