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ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

「神の種」
ヨハネは信仰者のことを神から生まれた者と呼びます。母の胎から生まれただけでは神の子にはなれません。神に生み直して頂く必要があるのです。しかし、クリスチャンは罪を犯さないとか、罪を犯すことができないと言われると、たちまち不安に陥るのです。では日々罪を犯す自分は偽クリスチャンなのだろうか。悪魔から出たものなのだろうかと。しかし、ヨハネはあなたは悪魔から出たものかもしれないと怖がらせているわけではないのです。

むしろ私たちには神の種が宿っています。み言葉と言ってもいいでしょう。み言葉の種がまかれました。罪とは法に背くことと学びましたが、み言葉が響くときに、み言葉に反逆することなどもはや不可能なのです。たとえ小さくても神の言葉は私たちを服従にまで導き、反発心や抵抗まで封じ込んでしまいます。それくらいみ言葉の力は凄まじいのです。逆らうだけ無駄なのです。無駄な抵抗をやめさせてしまうまでみ言葉は迫り続けることでしょう。

ということは神の子と悪魔の子の区別とは、み言葉に従いたいと願っているか、み言葉を軽んじるかの違いとなって現れると言っていいでしょう。しかもみ言葉に生きるということは抽象的な頭の中の話ではありません。もっと生活レベルの話なのです。義を行うという表現でわかるように、正しいことを行う方向にみ言葉は働くのです。その義なるみ言葉の戒めとはヨハネが何度も語って来たように兄弟を愛するということに尽きるのです。

ということは教会の中で兄弟を憎んだままでいる状態に甘んじていることなどできないのです。クリスチャンには正義感があります。高い倫理観も基準もあります。その正義感が高じて、相手を責めるということも起こりかねません。あんな人は信仰者ではないと正義感で罪を犯すのです。み言葉で相手を切りつけることさえしてしまうのです。正義感がこじれて信仰共同体から離れていってしまうことさえ起こるのです。

ところが、主が求めておられることは自己義を振りかざすことをやめることなのです。自分にも間違っている点があるかもしれないとつつましい評価に立つことです。その地平に立てるなら、相手をゆるし、相手を愛する方向に行動は移っていくでしょう。和解が生まれ、互いに愛し合う証が生まれることでしょう。互いが正しさと正しさでぶつかり合う間違いを悟るに至るでしょう。

それはどこで起こるのでしょうか。み言葉が語られる場においてです。つまり礼拝の場こそがその現場なのです。種であったみ言葉が、やがて実を付けていくと言ってもいいでしょう。これでもかこれでもかとみ言葉が炎のように燃える。一切の強弁が通用しない次元で砕かれる。愛せない自分に苦しみ、ゆるせない自分をもてあます。それもまた本当は愛さないといけないのだと葛藤している姿です。それもまた尊い。自分はどうせこんな人間なのだと開き直るよりは。

大丈夫です。み言葉が臨むなら、変化に気づくでしょう。いつの間にか溶かされている自分に。こだわりをも手放して自由にされている自分に。防衛で貼り巡らされた心にまで聖霊が働き武装解除が起こる。申し訳なさと感謝とが混然一体となって、気づいたら相手をゆるしている。愛さずにはおれなくなっている。み言葉はそこまで人を変えてやみません。神から生まれた者なのですから。自己規定さえこえてどこまでも変えられていくのは当然です。

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