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テモテの手紙第一5章23節ー25節

「自由人として」
テモテはかなり厳格でストイックな生活を貫いていたようです。水ばかり飲んでいたとありますから。これは当時のエペソの町が享楽的で退廃的だった背景があります。そういう文化の中から教会に導かれた者は、主イエスを信じてもライフスタイルが従来と変わらないことが起こります。そういう人に福音に基づく生活を提示するには、厳しめで禁欲的な生き方くらいで丁度いい場合もあるのです。教会を形成する戦いと言ってもいいでしょう。

私たちも、教会にこれから導かれる人を意識する必要があるのです。教会の門を叩く人は出来た人とは限りません。モラルが崩壊している状態もあり得ましょう。自分のためというより相手のために、どういう生き方で信仰の独自性を現代社会において証すればいいのか。低きに流れていくようでは、ライフスタイルを変えよという勧めも説得力を持ちません。神への献身的愛の行動が隣人に向かう。モラルは高めに設定するくらいでいいのです。

ただし、そのストイックな生き方がからだを壊してしまうなら元も子もないのです。テモテもエペソ教会の複雑な問題に巻き込まれ、胃を痛めるほどのストレスの中にいます。だからパウロは薬用品としてのぶどう酒を勧めるのです。これは現代の嗜みとしての飲酒とはまったく無関係です。酩酊は戒められているのです。むしろ伝道者として健康に留意して、できるだけ長く奉仕して欲しいと言うあたたかい配慮からの発言です。

伝道者の生き方は様々です。健康を優先順位におかず、福音のために満身創痍で構わないといのちを燃やす激しい生き方もあります。そうかと思えば、健康でなければ主のご用は果たせないと考える生き方もあります。どちらも正しいのです。いずれにせよ、健康とは手段であって目的ではないのです。クリスチャンの目的は主のために生きることです。そのために健康を削るか、それとも健康を選ぶかはそれぞれの信仰だと言うほかありません。

もっとも人はいつでも見た目だけで評価されてしまいやすいのです。表面的うわべの部分だけを見て、あの人はいい人だ、悪い人だと勝手なことを言います。そういう価値観に浸かると人の評価をおそれます。人の評価だけを求める信仰生活や、奉仕になってしまいやすいのです。信仰の動機として健全とはとても言えません。それでは人に見える部分だけ誤魔化していればいいパリサイ人的偽善に一直線になってしまいかねないからです。

私たちを評価して下さるのはあくまでも目に見えない主イエス様なのです。それなら人の評価にいちいち一喜一憂し、顔色を窺うのはやめましょう。誤解されたと落ち込み、注目を集めたと得意になる生き方に立ち続けることはできない。批判にもいい意味で慣れないと信仰には立てない。自己評価でさえどこかにおいてわたしを真に評価されるのは主なる神だけなのだともっとタフに、したたかになることはできないものでしょうか。

しかも主の評価が定まるのはさばきの時、すなわち終末においてです。それまでは悪いことが明るみには出ないことはあり得る。隠されている良いこともある。今だけを見つめているだけでは足りない。将来を見つめるのです。ゴールから逆算して今の地点に目を落とすのです。するとおのずとわかってくる。今何を意識すべきなのか。何に気をとられてはいけないのか。おそれおののきつつ目に見えない主を仰ぐ。これこそが敬虔の修練です。

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