第二ペテロ2章3節ー5節
「正義か悪か」
預言の言葉の確かさを強調してきたペテロは、信仰を混乱に陥れる偽預言者について警告するのです。もっとも彼らは自分たちを偽者だなどと決して伝えはしないことでしょう。真偽を見極めるポイントは行動にあります。いくら実しやかなことを語ろうともその行動を見れば一目瞭然だと言いたいわけです。何よりも彼らは貪欲なのです。金銭欲や所有欲、権力欲が動機になって突き動かされています。
角度を変えるなら、み言葉に導かれて生きようとするなら、貪りが動機となるはずがないのです。飽くなき態度で欲望の赴くままに何かを欲しがろうはずがないのです。偽預言者だけの問題ではないでしょう。偽預言者がもてはやされること自体、彼らの行動に惹かれていくフォロワーが後を絶たないと言うことになるからです。当時に限った話とは思えません。み言葉に立つ者は求めるものが明らかに違うはずなのです。
偽預言者は豊かな交わりを築くことなど出来ません。なぜなら商品価値のようにしか相手を見ることができないからです。相手をどれだけ利用できるか。相手からどれくらい奪えるか。その強欲の結果、人間関係が壊れようとなんとも思いません。今与えられているキリストの救いの恵みを否定します。どこまでも権威を求めて止まないわけですから、キリストの権威さえ邪魔になり、事実上、主の権威を打ち消すに至ることでしょう。
屁理屈とはよく言ったもので彼らは天使を模範にして引き合いに出していたようです。天使も自由に悪いことをしていたではないかと。ありとあらゆる規範など越えて善悪にさえ捕らわれなかったではないか。ペテロは反論します。それは天使とは言っても悪を犯した反逆の天使ではないか。しかも神はそういう存在を放置することなく暗闇の穴に閉じ込めたではないか。そんなものは決して模範になどならないと言い切るのです。
人間の心にはどうも悪に惹かれていくところがあるものです。しかし、私たちは悪を模範にする必要などどこにもないのです。それは自由でもなんでもない。実際、神は悪をそのままになさるようなお方ではありません。ノアの時代も義を伝えたノアと家族以外の者は洪水に呑み込まれたではありませんか。神には正義と悪の基準があります。悪を悪のまま終わらせはしない。義がないがしろにされたままにはならないのです。
もちろん最終的に神の正義が貫かれるのは終末の新天新地においてでしょう。それまでは混乱と無秩序と不正義がある。だからこそ自らは福音に立ち、忍耐しながら福音を証しするのです。言葉で伝えると同時に、むしろ生き方において、動機において。偽預言者を糾弾する前に、かえって自分たちの生き方、動機が問われています。自らの救いに満足することなくノアのように義の宣教者としての歩みを全うしたいものです。