ヨハネの手紙第一5章1節ー2節
「主の喜びが私たちの喜び」音声はこちらからお聞きになれます。
イエス様をキリストであると信じる者たち。これを教会と呼ぶのです。イエス様を救い主だと呼べず、罪からの救いを軽視するなら、それをもはや教会とは呼べないのです。教会に属するとは単に宗教法人の中に入るとか、何かの会員になるなどということとは根本的に違うのだということを覚えましょう。イエスがキリストですと信じるなら、私たちは教会の一部とされているのです。
それをもっと端的に表す言葉が神から生まれた者という立場です。自分の力で生まれる者はいませんから、神から生まれるのも受け身です。信仰は恵みとして神から与えられるのであって、私たちの何かの功績が求められているのではありません。たとえば王家に生まれたら、何もしていなくても自動的に王子であり王女です。同じく神から生まれたならば、こちらがどういう状態かは一切関係なく神の子なのです。
これほどまでに神は一方的に愛を注いで下さったわけです。それなら、この神が何をお喜びになるかに思いを向けるのは当然のことではないでしょうか。もちろん礼拝を捧げることは神の喜びとなるところです。その際、互いに愛し合う私たち自身を主にお捧げしようと言うのです。兄弟姉妹が愛し合う姿こそ主が喜ばれるものだからです。神が悲しむことをしたままで神を愛していますと言うのは明らかに矛盾ではありませんか。
教会の兄弟姉妹は全員神の子どもなのです。神の子を傷つけることは神を傷つけることに繋がるのです。よくあの人につまづいたと言うことがあります。それは深いところでは神につまづいたと言っているに等しいのです。相手を神の子として受け入れ、救った神をないがしろにしていることになるからです。
教会とは人と人との共同体です。ですからそこには神からの命令があるのです。ルールがないなら共同体として成り立ちません。ルールは単純であって、神を愛すると言うなら、神の子どもたちをも愛しなさいという一点に尽きます。愛のうちにあるときに、共同体の中に神のいのちが満ちていくのです。
ここで言う愛とは人間的な親しみでも甘え合いでも馴れ合いでもありません。特定の人に偏る排他的なものでもない。あくまでも中心におられるのは神であり、神の命令が重んじられることが互いに愛し合う姿なのです。神を愛すれば愛するほど、神の言葉も神の約束も神の戒めをも愛するようになります。御言葉に触れずして、神を愛することなどどうやってできるでしょうか。み言葉を聞くことを止めてはいけないのです。