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使徒言行録8章26節ー40節

「荒野にて」
突然の人事異動。この時フィリポはサマリヤにいます。聖霊が降り、リバイバルが起こってまさにこれからというタイミングです。主の使いが突然告げるのです。ガザに下る道に赴け。彼はためらいなく即座に出かけます。即断です。何故でしょう。人通りのさみしい地域なのに。日差し照りつける砂漠の荒れ野です。殷賑の賑わいとは程遠い鄙びた土地なのに。マイナスの要素ばかりではありませんか。

伝道が徹頭徹尾主のわざだからです。誰がどこでいかなる対象者にどうやって福音を語るのか。主導権を握るのは主なる神です。いつでもどこにでも向かう身軽さが求められています。栄転など無関係です。時に厳しい、誰もいかない、事情によっては周囲に理解すらされない場所でさえあり得るのです。しかし聖霊の流れを押しとどめることはできません。神の導きに身を委ねるのみです。

指示に従ったフィリポが現地で出会ったのは、エチオピアの高官です。エルサレム神殿に赴いた帰り道でした。しかし彼には三重の壁があります。第一に地理的な遠さ。ヌビア王国は当時の世界地図の南端なのです。第二に異邦人であるハンディ。異邦人は異邦人の庭までしか入れないのです。第三に宦官である点。男性としての機能を失い、身体に傷を負った者は申命記によれば神殿に入ることはゆるされないのです。

しかし彼の求道心は本物です。距離をものともしないエルサレム訪問にも希少で高価だった旧約聖書の巻物を買い求めて読んでいることからも明らかです。地元には地元の宗教も宗教家も存在している。女王の財産管理を任された新任厚い人物です。財も地位も名誉もある。権謀術数渦巻く宮廷で、それらのものを得ても満たされない何かを聖書に求めたと言うことなのでしょう。

馬車に駆け寄ったフィリポは聖書の解き明かしを始めます。どんな話をしたかは記録にはありませんが、宦官がイザヤ書53章を読んでいたことはわかります。同じ個所を何度も何度も読んでいることがわかります。意味はわからなくてもなぜか心惹かれる神の言葉があるものです。生ける神の言葉が二重三重に張られた壁を潜り抜けるようにして静かに彼の心に届き始めます。

フィリポは難民です。迫害から追われるようにしてエルサレムからサマリヤへ。さらにサマリヤからガザへ。下降線を辿るようにして荒野にいるのです。一方、相手は高級車に乗る役人とは言え、心の痛みやかわきを覚える者。環境は違うものの傷ついた、欠けのある者どうしが人ひとりいない荒野で出会うのです。神が引き合わせたとしか言えません。どんな環境であれ、そこに福音があるなら必ず何かが起こります。

実際、み言葉を悟った宦官は救いの喜びに満たされ、洗礼を受けるではありませんか。その瞬間にフィリポは姿を消すのです。主の霊が彼をさらう。しかしここにはさみしさも心細さもない。主と出会った彼は喜びながら旅を続けます。私たちの信仰も洗礼がゴールではありません。別れがあっても信仰の旅は続くのです。自分の使命を自覚し、喜びに胸をはずませながら。


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