テモテへの手紙第一3章6節ー7節
「教会を建て上げるために」
パウロは教会を治める監督を選ぶにあたって、その務めの条件を説くのです。ところが、その場にふさわしいとは思えない悪魔という言葉が二度も出てくることに驚かされます。それほど鋭い感覚で目に見えない悪魔を警戒しているのです。しかも罠とあります。罠なのですから、一見良いものに映るくらいに巧妙に隠されているものだということなのでしょう。誰もがそれが悪いものだという見極めができるとは限らないと言えましょう。
どういうケースが考えられるでしょうか。信仰をもって間がない人には、信仰的にいいものと悪いものの識別がまだ難しいのです。主のためによかれと善意ですることさえも間違えてしまう。偽教師に惑わされて、その教えこそが良いものだと主張してしまう可能性さえあります。高慢という言葉は眩惑という言葉です。自分で自分が見えなくなっている状態です。節度を越えて己惚れてしまうと、自分は間違っていないと主張してしまうのです。
その結果、様々な教えの風に惑わされ、新しい流行に飛びついて踊らされます。その行き着く先にあるのは教会の混乱でしょう。それでは健全な教会形成は難しい。従って吟味の力の弱い初心者にとっては監督の働きは荷が重すぎるのです。従って、パウロは配慮の気持ちから誰でも彼でも監督にふさわしいわけではないと戒めているのです。従って人手が足りないからという理由で安易に監督の基準を下げることは決して望ましいことではないのです。
更に言うなら、偽教師の教えになびいていくなら、教会全体が社会から悪評を受けることになるでしょう。良い評判を得られないならかえって宣教の妨げにもなってしまう。ところが自分は神のために良いことをしているという確信が強ければ強いほど、悪評を受けても、自分を理解しない社会が悪いのだと開き直るに違いありません。自らを改めようとはせず、尚、その悪い状態に留まり続ける。それこそが悪魔の罠でなくてなんでしょうか。
とても他人事では済む話とは思えないのです。現代の教会でもいつ起こってもおかしくはない現象だからです。その原因を掘り下げていくなら、決定的に足りていないのは聖書理解ではないでしょうか。むしろ私たちはみ言葉によって建て上げられ、成熟していく教会を目指していきたいものです。説教者のために祈って頂きたいと思います。さらに健全に聖書を解き明かす献身者がこれからも起こされ続けるように祈りたいのです。
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