ヨハネの手紙第一2章28節ー29節
「御子の現れるとき」
ヨハネは御子の現れる時について語っているのです。この手紙が書かれたのはキリストの再臨が語られ始めてから何十年も経った時代なのです。ところが、それまで再臨は来ませんでした。それなのにどれだけ月日が流れても、それでもなお、御子の現れる再臨の時について語られ続けているのです。それほど再臨信仰は大切で、私たち自身も再臨を意識する緊張感をもって歩むことが求められていると言ってもいいでしょう。
ところが、異端の人たちがいくら神を知っているといい、神秘体験を自慢していたとしても、罪の問題を放置しているならどうなるでしょうか。キリストが再臨なさる時にはすべてが明らかにされます。何が正しいことであり、何が間違いかがはっきりする。そのときに彼らはどのような弁明をすると言うのでしょうか。むしろ主の御前で恥じ入ることになってしまうだろうと警告されているのです。
もちろんヨハネはその時には、教会に集う人々がそうなってしまわないように願っているのです。むしろキリストにとどまり、キリストを正しく告白する者にとっては再臨とは恥じ入る時ではありません。むしろ喜びの時となるのです。私たちの救いが完成される希望の時となるからです。その時が来るならば、確信をもって顔をあげて正々堂々とキリストの前に立つことができる。そういう約束が与えられているのです。
これは再臨に限った話ではないでしょう。個人の終末と言ってもいい死についても同じことが言えるからです。考えてみると人は死にゆくときはひとりです。その時にはたったひとりで主の前に立たされることになるのです。その時に、十字架の血潮によって罪赦された者として御前に立てるかどうかを絶えず意識しましょう。そのうえでいつ死が訪れてもいいように、今日という一日を大切に生きることが私たちに課せられた務めではないでしょうか。
それでは果たして自分が神から生まれた者かどうかを確かめるにはどうすればいいのでしょうか。ヨハネは言うのです。それは義を行っているかどうかで吟味できるのだと。義を行うとはなんのことでしょうか。具体的にはこの手紙がずっと伝えてきたように、主の掟である互いに愛し合う生活ができているかどうかによってはかられるのだと言っていいでしょう。御子のうちにあるものは互いに愛し合うことを目指すはずだからです。
もっと言うならば、正しい信仰理解は、正しい生き方を必ず生んでいくはずだと言ってもいいのです。一方、間違った信仰理解は間違った行動に導くことでしょう。あいまいな理解はあいまいな生き方しか生まないでしょう。そうならないように、だからこそ御子のうちにいつもとどまっていることが命じられているのです。