見出し画像

第一テモテ2章3節ー5節

「救い主である神」
信仰者がどうしても押さえておく必要のあること。何が神が良いとされることかを優先することです。神の喜びに焦点を絞るのです。神が喜ぶのであれば、積極的に自発的に行っていく姿勢。それが信仰なのです。

ここでは神が救い主であると強調されています。ここで言われているのは、神に礼拝をお捧げし、すべての人のためにとりなし祈ることが、すべての人の救いに繋がる約束です。あの人は救われないとこちらが勝手に限界を定めない。神が救えない人などひとりもいないのです。

ここで注目したいのはある種の順序についてです。すべての人が救われることが優先であって、救いの結果として人は真理を知るようになることが起こります。真理を知ってから救われる順番ではないのです。聖書の何もかもわかってから信じますという発想はそもそも間違いなのです。

むしろ信じたならば、徐々に心の目が開かれて、今までわからなかったことが、わかってくる世界があります。後になってからみ言葉の意味が深く理解できる場合もあることでしょう。これが私たちの信仰の体験なのです。

だからと言って方法が多岐にわたるわけではありません。唯一の仲介者が神と人との間に立てられた事実は動かしようがないのです。キリストだけが神と人との間を繋ぐ存在です。なぜこれを強調する必要があるのでしょう。この福音を否定する教えが流行していたためです。イエスキリスト外に救いはないのに、それを過小評価しだすのです。

イエス様を信じるだけでは不十分ですとプラスアルファを求め出すのです。何か実績を作らないといけない。特別な体験をしないといけない。こういう行いをしないといけない。こういう考えは、結局は十字架を否定し、恵みをわからなくさせてしまいます。私たちは主の恵みの福音にどこまでもとどまる者でありたいのです。多くの人にこの救いを分かち届けることができますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?