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ヨハネの手紙第一4章1節ー2節
「神からの聖霊」
ヨハネは神が与えて下さった霊、聖霊について語ってきました。しかし聖霊と別の霊ははっきりと違うと言うのです。霊ならなんでもいいと言う訳にはいきません。何故なら違う霊は違う方向に人生を導いてしまうのです。だからこそヨハネはどの霊も聖霊と言うわけではないと言うのです。惑わしの霊も働いているのだから、聖霊なのかどうなのかを確かめなさいと言うのです。聖霊でない霊をもって語る者は偽預言者なのですから。
当時、間違った教えは時代の先端をゆくような高尚で哲学的なものでした。それを信じることでなんとなく知的になったようにも特段霊的になったようにも錯覚するのです。そうやって誰かを見下し、軽蔑し出します。彼らには伝えられた福音が何か幼稚で愚かな教えのように見えたのでしょう。しかし、自分を特別視に至らせるような霊が決して聖霊ではないことをはっきりさせておきましょう。
それでは、何をもって聖霊かどうかを吟味すればいいのでしょうか。イエスキリストが肉体をとってこられたことを告白しているかどうかにかかっているとヨハネは言うのです。これは主イエス様が肉体をもって生れ、肉体ごと十字架にかかられた贖いの恵みを指しています。贖いとは罪からの贖いです。即ち、人間の罪の問題を真正面から見据えさせることこそ聖霊の働きだと言いたいのです。
なるほど聖霊は不思議な働きをします。霊的体験の深みへと導かれることもあるでしょう。しかし、いくら不思議な現象が起こったとしても罪の問題に目をつぶらせ、罪をごまかし、罪の問題を曖昧にするとしたならどうなのでしょう。ましてや自分には罪などないと誤らせ、肉の高ぶりへと導くような働きを聖霊によると認めるわけにはいかないではありませんか。罪を指摘しない教えはいつの時代も人気がありますが正しいものとは言えません。
むしろ十字架が語られる時に聖霊は注がれるのです。十字架の主がはっきりと明らかにされ、罪の赦しが宣言される場に不思議な体験が現れたとしても、十字架との関係は明らかなわけではありませんか。御霊の賜物の現われがあるところに、互いに分かち合い、互いに仕えあい、互いに愛し合う愛が実現していくと言ってもいいでしょう。そこには遜りと感謝が生まれこそすれ、自分を特別視するうぬぼれなど出て来ようはずがないのです。
私たちは自分のような罪ある者にも聖霊が注がれていることを感謝したいのです。神の子とされているからこそ聖霊が降り注ぐのです。聖霊は個人にではなく神の子の集いである共同体全体に注がれます。キリストのからだである教会全体にいのちの御霊はゆき巡ります。この御霊に導かれ、ますますイエスキリストを愛する者とさせていただきましょう。