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第二ペテロ2章15節ー16節

「バラムの道」
Ⅱペテロ2章15―16節

道に人の名前がつく例はあるものです。バラムも人物名です。実際にそういう名前の道があるわけではありません。ペテロは民数記に出てくるバラムの生き方を悪い模範として挙げるのです。彼は占い師です。モアブの王バラクに依頼を受け、イスラエルを呪おうとするのです。彼は提示された多額の報酬に惹かれて、仕事を引き受けようとしたのです。不義の報酬を愛したとある通りです。それは正しい道ではなく曲がった道なのです。

今でいうネガティブキャンペーンです。教会の悪口をネットに書き込み、炎上させるケースがあちこちで起こります。偽預言者たちも教会のあることないことを吹き込み挑戦します。しかしその実態は欲望の塊です。自分が変わりたくないために、神様の教えを変えて曲げてしまうのです。自由が与えられたのだから、本能の赴くままに生きればいいとみ言葉にないことを主張し始め、教会を攻撃しだすのです。福音が自分にとって都合が悪いからです。

ところで神がバラムをとがめた方法はとても不思議でした。バラムが乗っていたロバが言葉をしゃべり、イスラエルを呪おうとした彼を阻んだと言うのです。このようにバラムの企ては挫かれます。しかしその後彼はミデアンの娘を使ってイスラエルを誘惑し、不品行と偶像の罪をイスラエルにまき散らす元凶となりました。バラムの名前は自分の欲望を正当化する者代表であり、人々を惑わす悪影響の代名詞として長く覚えられているのです。

ロバには見えていたものがバラムには欲のために見えていませんでした。ここにはペテロの強烈な皮肉があるのでしょう。偽預言者は理性のない動物のような存在だと警告したが、実際は動物のロバ以下ではないかと言うのです。ロバには天使が見えていました。しかし自分たちには見えてもいない天使についてあれこれ詮索する態度は滑稽だと言わんばかりの皮肉なのでしょう。

今でも関係があります。自分は霊的なことに関して特別に通じているという主張は怪しいのです。聖書がはっきりと書いていないことまでを詮索しだすのです。そのうちに啓示を受けたなどと断言し始めるのです。これ以上の高慢はありません。聖書にはっきりと証言していないことは誰であろうと断言できるはずがないのです。天使のこと、霊のこと。そこに懲りだすと福音から逸れてたちまち怪しげな世界にのめり込んでしまいます。

それも一種の欲望なのです。特別視されたい。もてはやされたい。注目を浴びたい。この思いに突き動かされていくなら、言うことも次第にエスカレートしていく。誇大妄想のようになっていくことでしょう。そういう自己拡大は歯止めが利かなくなるから狂気なのです。現代は自己愛の時代ですから、信仰の世界にも自己愛が忍び込みかねないのです。自己愛ではなく主を愛する者でありたい。自分の分を守り、ただ主をたたえる者でありますように。


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