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ヨハネの手紙第一4章11節ー12節

「互いに愛し合うならば」音声はこちらからお聞きになれます。
ヨハネは、イエスキリストが罪の償いとなって十字架にかかって下さったことに神の愛があると証言するのです。それでは、私たちはこのような深い神の愛を頂きっぱなしでいいのでしょうか。この愛にどうお答えしていけばいいのだろうかと考えないでしょうか。もちろん、神は恩着せがましいことを言うような方ではありません。しかし、神に対して感謝をあらわす方法はあると言われているのです。

もしも神への感謝があるのなら、互いに愛し合うことに思いを向けるようにということなのです。受け取った愛を、今度は相手に与えていくのです。神からの愛はこぼれるほどの恵みである以上、相手へと溢れていくのです。とどめることができない。それが一番神がお喜びになられることでしょう。愛されることを知った者は、おのずと人を愛するように変えられていくものなのです。

それにしても、神はいったいどこにおられるのでしょうか。神は目に見えないお方ですから、肉眼で確かめることはできません。ただし、神がおられることがわかる目に見える証があると言うのです。それは私たちが互いに愛し合っているときです。神はその交わりのただ中におられることがはっきりするのです。もっと言うなら、私たちの間に神がおられないなら、互いに愛し合うことなど到底、不可能だとも言っていいでしょう。

更にいうならば、私たちが愛し合っている時に、神の愛が全うされると言うのです。これは目的を達成するという言葉です。即ち、神は互いに愛し合う信仰の共同体を生み出すために神ご自身を差し出して下さったということでしょう。その目的の結果生まれたのが教会なのです。従って私たちは教会から離れてはいけないのです。神がいかに教会を愛して下さっておられるかは、教会生活の中ではっきりと悟れるようになることでしょう。

これは、別に教会に集う人間が完璧だと言う意味ではありません。むしろ欠けだらけなのです。破れもあるでしょう。しかし、神はそういう者を召し集めて、互いに愛し合う群れを形作っていかれます。だから教会ではどこからでも神の愛が噴出するのを見ることができます。しかも教会は現在進行形で建設中なのです。欠けがあるからこそかばい合い、赦しあい、重荷を負いあうのです。

こういう姿を通して、神を知らない者でさえ、ここに神の愛があると気づかされることでしょう。自分もここに加えて欲しいと望む者が起こされる。教会とはそういう場なのです。互いに愛し合う姿こそが伝道に繋がるのですから。それは教会以外のどこにも見られないものです。

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