第二ペテロ2章12節ー14節
「間違い探し」
Ⅱペテロ2章12節―14節
信仰の成長とは何が正しく何が間違いか識別できるようになることだとペテロは伝えたいのでしょう。従って、間違い探しのように偽預言者たちの中身を吟味するのです。何よりも彼らは理性のない動物のようです。食べるために生きていくのだという人もいますが、その程度のことなら動物と変わらないのです。本能の赴くままに生き、知りもしないことをそしる愚かさ。しかし危険な野獣が処分されるように、その行き着く先は滅びだと言うのです。
生きるとは糧を得ること以上のもっと高尚なもののはずです。かつて日本もエコノミックアニマルと批判されたことがありました。経済さえ得れば、食さえ得られれば、相手を食い物にしようが傷つけようが構わない風潮は偽預言者に限った話でしょうか。人間に与えられた理性を尽くすならば、その曲がった価値観から解き放たれ、救われることこそ何よりも求めないといけないことだと分かることでしょう。
さらに偽預言者たちは昼間から酔っぱらっているというのです。働こうと思えばできるのです。それなのに汗水たらして労働することになんの重きも置こうとはしません。宴席とありますが、これは教会の聖餐のことなのです。当時は愛餐の場で聖餐が行われていたのですが、主の十字架を記念する場になんと酒をもって酔って乗り込んできて厳かな場を乱すというのです。彼らがいかに十字架を軽んじ、救いに無頓着かがわかる逸話でしょう。
聖餐は再び主が来られるその時まで記念され重んじられるものです。従って、再臨など来ないとあざける彼らが聖餐をいい加減に扱うのも当然であったのでしょう。私たちは絶えず主の十字架を感謝するものでありたいと思うのです。信仰的に正しいか間違いかを識別する一点は教会の秩序を破壊しようとしているか、保とうとしているかでしょう。何よりも聖餐とは同じキリストのからだと血に預かる兄弟姉妹の一致のしるしなのですから。
最後に彼らの目は淫行に満ちています。自分たちが性的にだらしないだけでは飽き足りません。信仰的に心が定まらない者を誘惑し、悪影響を及ぼすというのです。欲に目がないというのは面白い表現で欲に鍛えられているという言葉です。からだを鍛えると体力がつくように、欲望がますます強められている状態だというのです。まったく制御がきかない状態に陥っているばかりか、周囲まで道連れにしていくのです。
信仰は人を自由にするものでしょう。しかし何をしてもゆるされるというのは間違いです。魚は水の中でしか生きられません。同じように祝福とは神の定めた秩序の中に生きることの中にあるのです。もっともらしい理屈を並べようと神の秩序を壊すような生き方は呪いをわが身に招くものなのです。罪の呪いの罰を受けて下さった主を軽んじてはなりません。罪の中にとどまることなく祝福となる生き方へと私たちは招かれているのですから。