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第二ペテロ2章17節ー19節

「水のない泉」
Ⅱペテロ2章17―19節

偽預言者には特徴がありました。自分の欲望を正当化してしまうことです。そのためには邪魔になるみ言葉さえも曲げてしまいます。ペテロはこういう人たちを水のない泉、突風に吹きはらわれる霧にたとえます。どこまでも本能のままに生きると、なるほど、一瞬の解放感や快楽を味わえるのです。一瞬自由を謳歌したようにも感じます。しかし、それは水のない泉のようなのです。霊的な渇きをいやしてくれるようなものではないのです。

あるいは霧のようにたちどころに消えてしまう幻想のようなものにすぎません。風が吹くと消えてしまう。いくら正当化したところで結局は大切なものを失い、闇に呑み込まれていくだけなのです。もっともらしいことを言い続け、自分は何一つ変わろうとはしません。他人事とは思えません。偽預言者とは言わないまでも、決して渇きをいやせないものにのめりこもうとする人々は今も後を絶たないからです。そこにはなんの解決もありません。

それだけではありません。彼らは自ら破滅にひた走るだけではなく、せっかく信仰をもって罪から逃れようとする人々を誘惑するというのです。堅苦しい規範などどうでもいいではないかと唆すのでしょう。悪影響があるのです。周りをも巻き込み、傷つけていくのです。誤った生き方に開き直って、自信満々に自分たちが伝えていることはさもすごいことであるかのようにアピールします。しかし実態は何も中身がなくなんの根拠もないのです。

根拠のない自信ほど厄介なものはないのです。自分は正しい。自分は間違っていない。自分はいいことをしている。果たしてそうなのでしょうか。それが宗教的信念にまでなると深刻なのです。無知な者がかえって声を大きくして幅を利かせる。誰の忠告にも耳を貸そうとしなくなる。対話にもならないのです。

彼らの言う自由とは単に罪を許容する言い訳としての自由です。そんなものは自由でもなんでもありません。かえって滅びに至る罪の奴隷になっているに過ぎないのです。むしろ彼らはその欲望と本能を克服するどころか、征服されてしまっている敗北者ではないかとペテロは喝破するのです。現代も自由を悪の口実として正当化することは、福音とは全く関係ない虚偽だと理解しておきたいものです。

キリストの与えて下さる本当の自由とは、私たちを成長させていくものなのです。私たちを成熟させ、高めていくでしょう。今まで通りの生き方を決してよしとはしないことでしょう。むしろ生活によき変化を与えていくでしょう。周りにむしろよき影響を与えていくでしょう。罪に勝利する力が与えられていくことでしょう。騙されてはいけない。このキリストの前に、どれだけまことしやかであろうと一切の詭弁は通用しないのです。

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