テモテの第一の手紙2章11節ー15節
「女性が教えてはいけないのですか」
女が教えてはいけないのでしょうか。パウロは女性差別主義者でしょうか。女性は教えを受けよとあります。ラビが女性の律法の学びを禁じた中、パウロは女性が律法を学ぶのは当然の権利だと言います。学ぶには静かにする必要があります。
そんな彼が女性は福音を教えるなと説くはずがない。テモテも祖母や母から福音を教えられたのです。エペソには女神の神殿があり、巫女や女性神官を多く抱えていました。パウロはこの影響を受けた女性が教会で幅を利かせ奇妙な考えを教えるのを禁じるのです。
支配とは、創始者という言葉です。創世記のアダムとエバの物語が他宗教と混ざり、エペソに伝わりました。彼らはエバがアダムを創り、命を与えたと主張します。エバがアダムに禁断の実を与え、アダムは啓示に目が開かれたと言うのです。まるでエバを女神扱いします。
聖書の証言にない話です。だからパウロはエバは惑わされ、過ちを犯したと軌道修正します。女性が男性に啓示を与えない。キリストだけが仲介者です。現代でも福音が伝わる地域で、聖書と他宗教が混ざる現象が起こります。聖書の証言に耳を傾けましょう。
彼らは結婚や妊娠も肉体を汚すと考えます。子を宿す者は救われないと、結婚を禁じます。パウロは独身者の女性や子のおられない女性は救われないと言っていません。結婚し、子どもを宿した女性が救いの恵みから漏れないと励ますのです。子育てを下に見る発想が間違いなのです。
人を救いに導き、成長に力を貸すのは出産や子育てに似ています。救われた者にしかできない奉仕を通して救われた私たちの成熟も起こるのですから。
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